日本伝統音楽研究センター

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京都祇園祭り 南観音山の囃子

凡例

日本語要旨

0 はじめに

1 概況

2 担い手

3 曲目と笛の旋律パタン

4 囃子の機会

5 楽器とその奏法

6 演奏の実際

7 口唱歌・譜

8 伝承過程

9 囃子の変遷と意味付け

10 南観音山における囃子の特色

謝辞

文献資料

音響資料

映像資料

English summary 英語要旨

 

 

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9 囃子の変遷と意味付け

囃子の変遷
(財)祇園祭山鉾連合会・京都市観光局文化財保護課が1968年に作成した録音テープをきくと、当時の囃子の方がテンポが速い(ただしこれは、太鼓方の裁量の部分も大きいようである)。また、笛においては高さに違いがあり、その結果囃子に様々な音の層があった。現在は、全体的に音の高さが統一された、澄んだ音となっている。一方、以前あった笛の装飾的な奏法は、現在は少なくなっている。

また、昔は笛や太鼓の個人の流儀がかなりあって、「○○の流」などといっていた。たとえば、船鉾に囃子方としていっていた河合春一氏の笛や太鼓は独特であったという。また、指導者によって、指導の内容にかなりの相違があったようである。

意味付け
南観音山の祭りは、真の意味に町内の祭りとなっている。6月になると、人々は祇園祭りを意識しだす。正月と同じであり、それをむかえる・おこなうのは当たり前という感覚があり、祇園祭りは生活の中にはいりこんでいる。

山鉾にのって囃子ができることに、ある種の優越感をもつことについてのべる囃子方は多い。ある囃子方は、「かつては、上から山鉾をみおろすということは絶対になかった。だから、山鉾にのって上からみおろすと、ヒーローになったような優越感があった。今は、マンションからみおろしも誰も注意をしない時代だから…」とかたっている。

以前は、囃子方にはまた、粽をなげる楽しさがあった。粽は桶に水をいれて、1晩つけておく。そうしておいて重みをつけて、遠くにとばすのである。名刺をつける人もいたという。なげている間は、他の人に囃子をたのむ。道路の反対側のどれだけ高い階になげられるかをきそった。お目当ての女性にむけてほうると、他の人がとってしまい、「ちゃう!」とさけんだこともあったという。一方、おばあちゃんが手をあわせていると、あげてしまう気持ちになった。またかつては、山に酒やつまみをもちこんで、飲み食いをしながら囃子をしていた。「祭りや!」ということで、これも大きな楽しみであった。氷柱の氷をカネスリでけずりとり、オンザロックをつくってのんだこともあったという。よった上に山がゆれ、ぐらぐらになる人もいた。

粽投げ(昭和51年(1976)、写真提供:木村正之氏)
〔写真23〕 粽投げ(昭和51年(1976)、写真提供:木村正之氏)
  

また、いろいろな職種の人々とまじわれるのが、囃子方の醍醐味である、職場の関係は、退職してしまえばきれるが、この関係はより長く深いとかたる囃子方も多い。囃子方は、こういうことをやれる環境にあることに感謝している。また同時に、自分の代でやめたくないという気持ちが強く、確かな形で次の世代をつくっていくことに責任を感じているという。

囃子方にとっての一番の課題は、囃子の伝承の問題である。現在の南観音山には、現在女子も在籍し、子供も沢山いて、一見人材的には恵まれているようにみえる。しかし、どんなに人が多くても、真剣で長くつづける者がどれだけいるかということが大事な点であるという。実際、囃子方の歩留まりは3割程度である。最近は両親がやらせたくてというケースがめだっているが、そうした場合の多くは本人の動機が低く、大抵つづかない。小学校5、6年まで、よくつづいても中学生・高校生までというケースが圧倒的に多く、受験が最大の障害となっている。いかにして、生涯つづける囃子方を養成していくかというのが最大の課題となっている。

こうした事柄について、ある長老の囃子方は、次のようにかたっている。「若い頃は、なりふりかまわず囃子をしていれば良かった。それは一番楽なことである。しかし、本当は、囃子の伝承とは、苦しいものである。遊び半分ではできない。囃子を指導していかなければいけないし、ひろめていく必要もある。頭にたつ存在になると、常時そのようなことをかんがえていかなければならない。現在、かつての苦労の甲斐があって、ええ人がそろってくれたとおもう。しかし、現在稽古にきている大勢の人達をみて、「今年は多いな」とおもっても、次[来年]にきてくれるかなと心配になる。囃子の伝承には、そうした不確かなところがある。囃子の伝承を人々につたえていくのが、現在の自分の使命であるとおもっている」。

また、別の囃子方幹事は次のようにいう。「囃子方の指導というのは、1人ではつづけられない。同年代・年配の者と一緒にやっていくことが大事である。そうやっていけば、中心となる人がまたそだっていくのではないだろうか。そうすれば自然と役割分担がでてくるだろう。私らはそろそろ引退である。リーダー役は若い人にまかせ、笛をふいて、囃子について口をだす、うるさい爺さんになりたい」。このような指導者達の思いに呼応するように、ある大学生の囃子方は次のようにのべている。「自分が囃子方にはいったのは、特に囃子に興味があった訳ではなく、仲の良い友達がはいったからである。途中受験で休会したこともあるが、でもせっかくはじめたことなので途中でやめるのはくやしいので、長くつづけたい」。

今でも囃子方の心にのこっている人に、若くしてなくなってしまった囃子方M氏がいる。本当に祭りと囃子がすきだった人であり、調整能力にたけており、人望が高かったという。30代で交通事故でなくなった時には、2月の霙がふる中での葬式にもかかわらず、囃子方が囃子をはやした。涙がとまらず、特に笛方は大変であったという。この時の囃子は、囃子方に大きな感銘をあたえ、現在でもかたりつがれている。現在、息子さんが囃子をつづけているのも、氏のそうした気質をひいているのだろうと人々はかたる。このエピソードは、囃子方同士の連帯感といったものを如実にものがたっているといえよう。

また、ある囃子方幹事は次のようにかたる。「囃子は人を虜にするものだ。自分はお祭りがすきだし、囃子がすきだ。だから、一生これをつづけていきたい。もし、お祭りや囃子をつづけるのにあたって何か障害が発生したとしたら、なんとしてもこれを除去して、何らかの形でつづけられる状況をつくっていきたい」。こうした思いが、祭礼を、そして囃子をささえているのである。

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