日本伝統音楽研究センター

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京都祇園祭り 南観音山の囃子

凡例

日本語要旨

0 はじめに

1 概況

2 担い手

3 曲目と笛の旋律パタン

4 囃子の機会

5 楽器とその奏法

6 演奏の実際

7 口唱歌・譜

8 伝承過程

9 囃子の変遷と意味付け

10 南観音山における囃子の特色

謝辞

文献資料

音響資料

映像資料

English summary 英語要旨

 

 

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1 概況

南観音山の囃子は、京都市中京区新町通錦通上る百足屋町に伝承されている(2006年現在の百足屋町の世帯数は51、事業所数は16で、合計67である)。囃子の主な機会は、毎年7月1日の「囃子方の吉符入り」、1日から7日まで(4日は休み)の「二階囃子の稽古」、13日の「曳き初め」、13〜16日に鉾の上ではやす「お山囃子」、16日の「日和神楽」と、17日の「山鉾巡行」である。その楽器編成は、鉦(摺り鉦)、太鼓(短胴枠付き締め太鼓)、笛(能管)であり、これは祇園祭りの他の鉾や山の囃子と共通している。

南観音山は「下り観音山」ともよばれ、明治5年(1872)以降昭和40年(1965)までは、後祭りのしんがりをつとめる曳き山であった。山内に楊柳観音を安置し(脇侍は善財童子)、その象徴として後方に大きな柳枝をだしている。

南観音山の歴史については、百足屋町が明治以前の町有文書一切を、元治の大火(元治元年(1864)でうしなっているので定かでない面が多い〔木村他 2005〕。しかし、北観音山では、古記録で文和2年(1353)までその歴史をさかのぼることができ(『六角町文書』における、山の真松の記載〔吉田 1993:72〕)、おそらく南観音山も同時期に成立していたとかんがえられる(ちなみに、南観音山が文献上で確認できるのは、『祇園社記』第15、明応9年(1500)6月14日条の「観音山 上六角町 下錦小路二町」である〔若原 1981:1306〕)。元々両観音山は、屋根の無い曳き山であった。当初から囃子が存在していたかどうかは定かではないが、「祇園祭礼図屏風」(六曲一双、寛永年間(1624−1644)前半期、京都国立博物館蔵)〔京都国立博物館 1996〕の北観音山、「祇園祭礼図屏風」(六曲一双、海北友雪(1598-1677)画、明暦年間(1655-1658)の筆、八幡山保存会蔵)〔赤井・中島 1982〕の南観音山の図像には、それぞれ囃子方が存在している。やがて、両観音山には天幕がはられ(『祇園会細記』、宝暦7年(1757)〔植木 1974〕)、さらに、北観音山では、宝暦13年(1763)に青天井障子屋根が、寛成9年(1797)に木造の大屋根がつくられ、天保4年(1833)には最終的に大屋根型の曳き山が完成し、装飾品も豪華になった〔松田 1977・若原 1981:北観音山の章〕(完成直後の様子は、「祇園祭礼図屏風」(六曲一双、個人蔵)〔祇園祭山鉾連合会他 1994:図版9〕で確認できる)。おそらく南観音山も、同様の経緯をたどったと推察される。

かつて前祭りと後祭りとにわかれていた頃の後祭りの巡行路は、「三条烏丸集合─三条通り─寺町通り─四条通り─四条烏丸解散」(昭和40年(1965)まで)であった。午前10時頃、渡りの囃子で出発、三条高倉の紙屋長谷川の前で籤改めとなるが、その直前で囃子が早くなり、渡りから戻りの囃子へと移行する(籤改めでの囃子は〈於福〉、「3 曲目と笛の旋律パタン」参照)。三条通りは民家が多く、二階を開放してお客を招待し、二階から見物する人が大勢いた。二階から菓子やかちわり、小銭などをなげたり網でだしてくれ、お返しに囃子方は粽をわたした。また、三条寺町の三嶋亭からは、モモの振る舞いがあるのが恒例であった。寺町通りは商店が多く、しっている人も多いので、囃子方にとっては粽投げが楽しかったという。そして、お旅所で奉納囃子(〈神楽〉―〈藤〉)をおこない、正午過ぎには帰町する。その後、囃子方責任者の家で弁当をもらい、そこで皆でたべてかえったという。

また、前祭りと後祭り日程がずれているので、前祭りの笛方が後祭りにも参加するということがおこなわれていた。南観音山でも、昭和41年(1966)に、前の祭りと後の祭りが合同になるまでは、笛方は月鉾の笛方をうけおっていた人々がきていた。親方(取締)がうけおって人をあつめており、職人で高齢の人が多かったという。その多くは市内在住であったが、山鉾町の極近くにすんでいる人もいた(昭和2年7月起の「例年囃子方連名 南観音山」には、そうした笛方の氏名と住所も記載されている〔百足屋町史編纂委員会 2005:276-278〕)。「笛方はおかりしている」という感覚があり、町内の人は気をつかっていた。事実、笛方は悠々としていて、二階囃子にもなかなかあらわれず、きても大概遅い時間であった。笛無しで練習をしたり、笛をまじえた稽古が全体で1・2日しかしないということもざらであったという。また、当時は、簡単な曲ばかりをやっており、拾番集の〈七番〉〜〈九番〉(「3 曲目と笛の旋律パタン」参照)などは難しい部分があるので笛方がいやがり、はやしたことはほとんど無かったとのことである。こうしたことから、笛方を何とか自前でやりたいという機運がたかまり、昭和41年(1966)年の前の祭りと後の祭りの合同を契機に、囃子方の小泉博氏らを中心にし、船鉾出身の囃子方である河合春一氏の協力もあおぎながら、町内を中心とした笛方の養成がはじめられた。

かつて南観音山の運営は、5つの大家でおこなわれており、行司役が全てをとりしきっていた。囃子方は、行司役から依頼をうける立場にあり、笛方については、上述のように外部の親方(取締)がそれをうけていた。昭和41年(1966)に財団法人南観音山保存会(以下、保存会とよぶ)が、5つの大家の資産を財団化する形で発足し、祭りの運営は大きく様変わりすることとなった。特に先代の理事長の酒井英一氏は、囃子方・作事方(手伝い方・大工方・車方)・曳き手等にできるだけ多くの人々に参加してもらうという信念のもと、ひらかれた運営を実践した。その結果、南観音山には多くの人々があつまってくるようになった。現在の理事長もそうした精神を継承しており、よりひらかれた運営をめざしている。たとえば、慰労会に相当する足洗いに、各役の長だけではなく、関係者全員を参加できるようにしたのは、その一例である。

囃子方の運営にもこうした状況が反映しており、かつては囃子方の長(取締)が全てをとりしきっていたが、現在は時代にあった形で、囃子方会代表幹事を中心にして、幹事会のメンバーが分担をして運営をおこなっている(「2 担い手」を参照)。また、囃子方の複数名が保存会の理事になっていたり、山の懸装品掛けや「あばれ観音」の行事を囃子方が担当するなど(いずれも後述)、保存会の仕事に囃子方が大きく関与しているのも、南観音山の特色といえよう。

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