1 概況
放下鉾の囃子は、京都市中京区新町通四条上る小結棚町に伝承されている。囃子の主な機会は、毎年7月1日から6日までの「二階囃子」、13日の「曳き初め」、13〜16日に鉾の上ではやす囃子(「鉾囃子」)、16日の「日和神楽」と、17日の「山鉾巡行」である。その楽器編成は、鉦(摺り鉦)、太鼓(短胴枠付き締め太鼓)、笛(能管)であり、これは祇園祭りの他の鉾や山の囃子と共通している。
放下鉾という名称は、真木の天王台の人形が放下僧(腰に鞨鼓をつけている)であることに由来するが、むしろ近年までは、鉾頭が州浜に似ていることから、担い手および一般の人々には、州浜鉾という名称でよばれることも多かった。
その歴史は古く、『祇園社記』第15「祇園会山鉾事」に「一、ほうかほく 錦少路町と四条間」という記述がみえ〔河内 2006:155-156〕、既に応仁の乱前には現在の位置に実在していたことがわかる。画像資料においても、15世紀半ばの成立とされる「月次祭礼図模本」(六幅、東京国立博物館蔵)〔泉 1998、京都国立博物館 1996〕を初出として、その後の「洛中洛外図屏風」や「祇園祭礼図屏風」などに数多くえがかれてきた。中でも延宝5年(1677)完成の東福門院御所の建具として、狩野外記敦信(秀信)によってえがかれたとされる、「祇園会山鉾図杉戸(茶屋杉戸絵)」における放下鉾の画像(修学院離宮(中の離宮、中の御茶屋)蔵)〔祇園祭編纂委員会他 1976、クラーク 2005〕は、鉾や囃子方の精緻な描写において注目に値する。また、寛文年間以前の放下鉾の真木はずば抜けて長く、「あほう鉾」と渾名されたことが、『滑稽雑談』(元禄時代)や『喜遊笑覧』(文政時代)にみえるが、このことは各種の画像資料においても確認することができる。
なお、稚児は長い間生き稚児であったが、昭和4年(1929)からは、三光丸という操り人形となった。人形を操作する稚児方は、人形を製作した市内在住の人が担当する。稚児舞をおこなう場所は、巡行当日のお旅所前、四条河原町の交差点、町内にかえってきた時などとなっている。その動作は、以下の通りである。
- 1)両手・両バチをそろえてまっすぐのばす。
- 2)その状態で手を左から右に移動する。
- 3)手を右から左に移動する。
- 4)手を左から右に移動し、真ん中にきたらまっすぐ上にあげる。
- 5)両手をひろげ、羯鼓を2回うつ。
〔写真1〕操り人形による稚児舞
〔写真2〕稚児舞(鉾の内部、写真提供:永井崇博氏)