日本伝統音楽研究センター

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凡例

日本語要旨

0 はじめに

1 旧下桂村と桂地蔵前六斎念仏の概況

2 桂地蔵前六斎念仏の民俗芸能誌

3 桂地蔵前六斎念仏の特質

4 桂地蔵前六斎念仏における伝承

謝辞

文献資料

音響資料

映像資料

英語要旨

 

 

桂地蔵前六斎念仏 その特質と伝承をめぐってトップへ

2 桂地蔵前六斎念仏の民俗芸能誌

機会

六斎念仏をおこなう主要な機会は従来、8月21日の地蔵寺の地蔵盆における「舞台回向」、9月1日の御霊社での奉納、毎年10月(後に11月)13日の空也上人開山忌への奉仕の3つであったが、その他にもいくつかの機会があった。中でも、農作業が一段落つくいわゆる八月大名が、「六斎をやる」期間(練習および本番)であるとされていた。現在は、「棚経」(後述)および舞台回向が、その中心となっている。

稽古は、かつては8月1日から舞台回向の直前まで、歓喜寺(同寺が廃寺になってからは桂幼稚園)で毎日おこなっていた。時間は午後7時頃から2時間程度であるが、熱心なあまり午前1、2時頃まで練習したこともあるという。現在は、6月(場合によっては5月中頃)から8月22日の本番まで、土日のみおこなっている。時間は午後8〜10時で、場所は桂幼稚園が廃園になったので、現在は桂東小学校のプレイルームでおこなっている。稽古時には、子供達にジュースをだす。

8月7日には大正時代の頃まで、「墓回向」といって、中路家(屋号くろだはん)の前の野墓において、一山打ち(全曲通し)をおこなっていた。時間は午後7時から8時頃まである。これは門徒(浄土真宗)の先祖迎えに呼応するものであり、囃子合わせ(あるいは稽古上げ)の意味合いもあった。これをおこなっていたのは、戦前までであった。

8月13・14日は「棚経」といって、下桂地区の全戸をまわる。かつては、13〜15日の3日間であり、15日を予備日とし、前日にまわりきれない場合まわることもあった。現在は二手のグループにわかれるので、13日と14日の2日間である。午後6時(かつては5時)からはじめる。12、3人が半々に2つのグループにわかれて、下桂・新町の約80軒をまわる。1人が先回りをして声をかけ、子供が太鼓、青年・大人が鉦・笛を担当して六斎念仏を演じ、お布施をもらう。回向唄に相当する念仏(〈あみだ打ち〉)とその他の曲1曲をおこなう(〈四つ太鼓〉をおこなうことが多いが、〈越後晒し〉や〈猿廻し太鼓〉の場合もある)。もらったお布施の額によって、短くやったり、曲を2曲やったりする。どの念仏および曲をおこなうかは、通常笛方がきめるので、お布施の額を先回りをした人からきいた鉦方が笛方につたえ、笛方はその額におうじて繰り返しの回数(1つ・2つ)をかんがえる。アラジョライ(新精霊、新盆)の家では、曲を2曲やり(〈青物づくし〉ともう1曲)、さらに御詠歌(通称「観音様の念仏」、三十三所観世音菩薩の詠歌)をそえる。御詠歌には笛がつかず、太鼓(中ドロ・カッチン)の縁をうつだけである。その家では、お布施を2包み分つつむ。棚経は現在でも、下桂地区における夏の夕涼みの風物詩となっている

棚経
〔写真2〕 棚経

8月15日には大正時代の頃まで、「市内棚経」といって、早朝より市内の親戚や得意先の家をめぐり、回向唄に相当する念仏(〈あみだ打ち〉)をおこない、要望があれば芸事の演目も演じていた〔芸能史研究会 1979:160〕。これは他所の「勧進」に相当する〔江馬 1977:241〕。

8月22・23日は地蔵寺の地蔵盆で、「舞台回向」と称して、地蔵寺境内に常設されている舞台で演じる(5年程前から、22日のみ)。日暮れの午後7時頃に、町内を一回りして開始をつげる〈寄せ太鼓〉をふれてあるく。舞台回向は午後8時頃から10時頃までである(現在は、演じない演目もあるので、午後9時過ぎには終了する)。以前は、終了後本堂によばれ、女性のまかないでにぎり飯と煮しめを頂戴していたが、現在はお地蔵さんのお供えのお下がりをもらってかえるのが通例となっている。往時の六斎念仏の人気は大変なもので、木の枝にのぼってみたり、舞台にかぶりつきでみていたという(写真3参照)。

昭和20年代の舞台回向
〔写真3〕 昭和20年代の舞台回向(昭和28年(1953)に河原茂市氏撮影、風間進之助氏提供)

また、昭和30年代の中断以前には、京都市内の他の六斎念仏に奉納してもらっていた(上久世・吉祥院・下津林等)。きてもらった六斎念仏には、ケンズイ(間水、軽食の意)をふるまう。逆に、かつて桂地蔵前六斎念仏の人々は、「物詣」と称して、他の六斎念仏の地域や寺社をおとずれて六斎念仏を奉納した〔田中 1959:36〕。また、現在では定かでは無いが、回向念仏のうち譜本に「〈地蔵ぶち〉(六地蔵の場合)」と記載されているものがあり、念仏六斎を伝承している他の地区同様に、地蔵盆に鳥羽・桂・常盤・鞍馬口・山科・六地蔵の6ヶ所の地蔵をめぐって六斎念仏を奉納する、「六地蔵めぐり」をおこなっていた可能性がある。

また、8月31日の久世蔵王堂光福寺の八朔祭宵宮にはかつて、久世六斎念仏(南区久世上久世町)が各地で六斎念仏を演じた返礼に、下桂・吉祥院等の各地の六斎念仏があつまって演じたという。ちなみに、上久世・吉祥院・下桂の間に、共通した演目が多くみられるのは、こうした機会での相互交流があったことも要因の一つであるとかんがえられる。さらにかつては、9月1日の八朔の日に、鎮守である御霊社の能舞台で演じ、9月8日は地蔵寺の薬師様の前で演じて、打ち上げとなっていた。

この他、かつては毎年10月13日(後に11月)に空也堂でおこなわれる、空也上人開山忌に奉仕をおこなっていた。演じるのは〈四つ太鼓〉など3〜4曲である。空也堂がらみでは、焼香式にも参加していたようである。焼香式とは、天皇や皇后がなくなった際に、洛中の主な寺院がおこなった儀礼であり、空也堂は焼香式に関連した金・銀太鼓の免許をあたえる形で、各地の六斎念仏を配下におさめていったのであった。明治30年(1897)2月におこなわれた英照皇太后焼香式に参加した8講中100名の中に、桂の名称もみえる〔芸能史研究会 1979:15-16、187〕。しかしながら、「六斎念仏は天皇の前、御簾前でおこなうものである」といった言及にそれを示唆するものがあるものの、現在焼香式に関する伝承は無く、免許状や金・銀太鼓などもつたえられていない。

また、本来の時期でなくても、たとえば冬でも、こわれれば市内にもうちにいった。お大尽が遊びにいっていた祇園町にもよくいったという。さらに、東京までかけたこともあり、「東京の宮家伏見宮、久イ(漢字)宮にご覧に入れに上京、住友家にも出演」(江馬・井上 1953:77)した。現在、六斎をおこなうその他の機会としては、各学区の夏祭り・敬老会・市の催し物(京都会館等)・各種芸能祭(淡路島の芸能祭等)などがある。しかしながら、最近は人員の関係から、できるだけことわっている。

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