4 桂地蔵前六斎念仏における伝承
前章で、所作事・狂言・曲芸などの特定の芸を演じる、いわゆる芸物とよばれる演目が他所にくらべて多いことが、桂地蔵前六斎念仏における最大の特質であることをのべた。実はこのことが、同六斎念仏においての伝承のあり方に大きな影響をあたえてきたのである。本章では、それについて論じることにしたい。
これらの芸物は、演じ手によって創意工夫がなされ、より精緻なものへとねりあげられていった。その結果、それぞれの演目は名人芸ともいうべき領域に達し、名人とよばれる人々を輩出するようになった。
江馬務は、主に戦前に活躍した名人として、「木村梅次郎(笛)、笹川松之助(笛)、中路嘉一、大八木平太郎(太鼓)、井上米次郎(鉦)、中路万次郎(鉦・衣裳方)、本田六十一(〈越後晒し〉)、中村徳次郎」(以上敬称略、以下同様)といった人々の名前をあげている〔江馬・井上 1953:76〕。一方、現在人々の記憶にのこる昭和20〜30年代の名人達は、以下のような人々である。中路喜三郎(〈三番叟〉)、中路源兵衛・中村房次郎(〈祇園ばやし〉の鉦)、中村儀枩(〈娘道成寺〉)、本田六十一(〈越後晒し〉)、中村信太郎(〈土蜘蛛〉)、中路[佐藤]嘉一(〈八兵衛晒し太鼓〉)、中村右一郎(〈石橋〉)、風間徳次郎・木村梅次郎・笹川周三・中村正三(〈獅子太鼓〉)、風間一男・中路宇之助(踊り一般)、風間進之助・中路賢二・笹川松之助・中路屋吉(笛)、井上彦次・井上長次郎・中路嘉一・佐藤嘉一(太鼓)、中村浅蔵(鉦)、中路万次郎(衣裳方)。中には、中路卯之助氏のように、祇園で太鼓持ちをやっていて、踊りをおぼえてきた人もいたという。また、地元の有力者で、後に貴族院議員にもなった風間八左衛門氏が、衣裳を寄付するなど様々な形で援助をしていた。
こうした名人達は、自分の立場を尊重して個人芸の追求をおこない、個人での伝承をおもんじた。下桂の六斎念仏は、個人芸の世界であるといわれる由縁である。一方、これらの人々は、自分の芸がぬすまれないようにし、その芸を他人や後継者と目される人におしえることはほとんど無かった。また、前述した口唱歌は、主に太鼓の伝承のためであり、芸物を演じる人も一応おぼえたが、それだけで芸物を演じられるものではなかった。
その結果、たとえば〈三番叟〉の鼓のように、キサハン(中路喜三郎氏)のみしっていて、同氏がなくなってしまうと伝承がとだえてしまうということが数多くおこったのである。特に、前述のように、六斎念仏の伝承においては笛が最も重要とされており、そのため笛がふける人がおぼえている曲のみがのこっているという結果になっている。三味線の手もつき笛の妙味があり、代表的な演目の一つともされた〈玉川〉の伝承がとだえたのも、笛の名人がなくなり、太鼓の上手な人が他所にうつったためであった〔田中 1959:36〕。名人達による派閥があったことも、こうした傾向を助長することとなった。
そして、桂地蔵前六斎念仏における伝承の特異性に更に拍車をかけたのが、先述した数度にわたる伝承の中断である。明治42年(1906)以降の30年間伝承がとだえ、昭和11年(1936)9月に復活し、その後戦争による中断をへた後、昭和25(1950)年に再開され、昭和34年(1959)頃までおこなわれる。やがて再び約25年間の中断を余儀なくされ、昭和57年(1982)に復活されて現在にいたっている。このうち、昭和10年代の復活においては、経験者も数多く存命していたため、伝承は相当高いレヴェルまで可能であったようである。一方、昭和50年代においては、伝承の復活は困難をきわめた。というのも、戦前から戦後しばらくまで活躍した上記の名人達の多くがなくなっており、それらの人々は上述のように自分達の芸を後継者につたえることがほとんどなかったため、伝承の断絶がおこったのである。
昭和58年(1983)の復活のきっかけは、昭和57年(1982)に、当時下桂町町会の町総代であった風間進之助氏が、せっかく道具も保管されているのに中断されているのはもったいないとかんがえ、その復活を提案したことによる。おしえる人をつのり、笹川梅太郎・中村浅蔵氏を中心として、風間進之助・中村平衛門の各氏などが講師役となり、地元の人々3名、消防団(桂東消防分団、風間一男分団長)の団員9名、それに小・中学生もくわわり、総勢25名で、桂幼稚園での練習がはじまった。楽器や衣裳(つづらに約30着)は、集会所に保管されていたものを使用した。また、井上彦次氏を会長にして、桂六斎念仏保存会も組織された。なお、なおこの復活にあたっては、地蔵寺住職の寺田弁誠氏の助言・援助(毎年多額の寄付)が大きかったという。そして、昭和58年(1983)8月22・23日に地蔵寺で、復活後初めての披露がおこなわれたのである(この時点では、一部録音テープを使用)。
戦後しばらくまでの時期に活躍して存命している人々は極少数であり、かつ上述のように、重要な演目(特にいわゆる芸物)の伝承者がいない場合が多かったため、復活をさせるのは大きな苦労があった。とだえて久しかったので、かつてやっていた人も、自身や古老の記憶をおもいだしながらの練習であった。中堅の人達は、自分達もおぼえながら、同時に子供達におしえるという試行錯誤が長くつづいた。「自分達もろくにできないのに、どうしておしえられるのか」、という思いが当時の指導者達にはあったという。芸態の再構築には、昭和34〜35年頃に、歓喜寺にて録音されたテープも使用された。練習がすすむにしたがって段々おもしろくなっていき、車にテープをつんでききながら運転したりしたという。
〔写真19〕復活の際の練習風景(昭和58年(1983)8月、桂幼稚園講堂、京都新聞社提供)
こうした努力の甲斐があって、現在大方の演目は復活することができたが、〈式三番叟〉〈獅子太鼓〉などは、完全に伝承している人がいないため、結局中途半端な伝承となってしまっている。また、いわゆる芸物の演目は本来、かなり簡略化されてはいるもののある種の物語を演じるものとなっているが(たとえば〈娘道成寺〉における安珍清姫の物語)、現在の子供達や若者達にそれが十分理解されていないので、表現が中途半端で意味不明なものとなってしまっている。さらに、現在小中学生もかなり在籍しているのであるが、中学校を卒業すると恥ずかしいといってでてこなくなるし、また受験やクラブ活動で練習も滞りやすくなりがちであるという。
一方で、担い手達には「できへんことができる、うてないものうてるようになるのが醍醐味である」「良いところをみせよう、へたでも早くうちたい」という思いがあり、「芸能として良いところがあり、やっていて楽しい」という実感をもっている人もいる。ある担い手は、「郷土の文化だし、せっかくこれまでやってきたのだからという思いと、忙しくてしんどいのでやめたいという思いが交差している」とのべているが、これは現在の桂地蔵前六斎念仏の伝承のあり方を如実にものがたっているといえるだろう。
以上みてきたように、かつての桂地蔵前六斎念仏における、名人芸を中心にした伝承のあり方は、民俗芸能においても芸の高度の練り上げが可能であると同時に、伝承における危うさという両面をしめすものとして、興味深いものがある。
伝統芸能をとりまく社会的状況は変化し、伝承の形態は、かつての名人達を中心にしたものから、桂六斎念仏保存会によるものへと大きく変化した。そうした中で、地域の共同体において六斎念仏をどのように位置づけ、かつ若い人々を組織化して、いわゆる芸物を中心とした演目の伝承をどれだけ確かなものにしていくかが、桂地蔵前六斎念仏の今後の課題になっているといえよう。