日本伝統音楽研究センター

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凡例

日本語要旨

0 はじめに

1 旧下桂村と桂地蔵前六斎念仏の概況

2 桂地蔵前六斎念仏の民俗芸能誌

3 桂地蔵前六斎念仏の特質

4 桂地蔵前六斎念仏における伝承

謝辞

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英語要旨

 

 

桂地蔵前六斎念仏 その特質と伝承をめぐってトップへ

1 旧下桂村と桂地蔵前六斎念仏の概況

旧葛野郡下桂村地域一帯は、古くから「桂」と総称され、公家達の別荘がおかれていた。隣接する桂川では鵜飼が盛んにおこなわれ、アユが朝廷に献上されており、桂供御人や桂女の根拠地であった。また、桂川には平安時代から渡しがおかれ、近世においては同村はすべて桂宮家領であり〔内藤 1967〕、桂宮家より、渡船操業権があたえられていた。近世における下桂の名物には、アユとならんで桂飴(管飴)があり、桂女とよばれた女性が京都市中を売りあるいた〔京都市 1994:208-236〕。桂女は元々は天皇にアユを貢進する供御人であったが、やがて年頭・八朔において、権門や領主に推参してアユや鮎鮓、飴などを献じたり、巷に売りあるくようになった。中世後期から近世前期にかけては、身につけた舞歌によって興をそえる宴席の盛り立て役として、あるいは戦勝祈願や婚礼などの祝儀の席での言祝ぎをおこなう呪能者、さらには産婆役として、巷に広くむかえられた。そして、近世後期には、公儀による認可をうけての組織的な勧化(安産の守りや疱瘡除けの守り札の販売・配布)をおこなっていた〔網野 1984・1990、小阪 2004、蓮沼 2001、村上 2003、2005、森田 1997〕。

明治初年における下桂村の個数は124戸、人口は606人と、桂川以西における大村であった。主な生産物は、桂瓜(越瓜、シロウリ)・飴・茶などである。明治22年に、徳大寺・千代原・上桂・上野の各村と合併し、桂村となった。昭和6年に京都市に編入された以後は、市街地化がすすんだ〔京都市 1994:208-236〕。現在は、住宅地がつらなる状況であるが、それでも所々に往時をしのべる場所がある。

昭和30年代の下桂風景
〔写真1〕 昭和30年代の下桂風景(昭和32年(1957)に河原茂市氏撮影、風間進之助氏提供)

桂地蔵は、中世を通じて多くの参詣客でにぎわい、そこで風流拍子物が演じられていたことは、『看聞日記』や『桂川地蔵記』の記述からうかがいしることができる〔宮内庁書陵部 2002:45-46、54-58、65-66、2004:24、植木 1974〕。その頃の地蔵堂の位置は定かではないが、元禄6年(1693)に再興されたのが現在の地蔵寺(西京区桂春日町)であり、近代にいたるまで多くの信仰をあつめた(その後、地蔵寺は尼寺になり、現在にいたっている)〔京都市 1994:209-218〕。桂地蔵前六斎念仏の名称はこの地蔵寺にちなむものであり、後述する舞台回向は同寺への奉納という形で演じられている。

桂地蔵前六斎念仏の起原については定かではないが、『六斎支配村方控帳』(宝暦5年(1755)には、「一、下桂村 講中」という記述がみえ〔芸能史研究会 1979:194〕、この頃既に六斎念仏がおこなわれ、光福寺(通称干菜寺、京都市左京区)の管轄下にあったことがわかる。なお、光福寺の管轄は、広く丹波・丹後・近江・若狭にまでおよんでいた〔芸能史研究会 1979、植木・山路・青盛・樋口 1981、原田 2000、伊藤 1963、文化財保護課 1988、和歌森 1966、福井県教育委員会 2003、永江 1995)。また、「六斎念仏収納録」(明治17年(1884)8月)には、「桂地蔵前」という名称があり〔田中 1959:8〕、他の京都の六斎念仏と同様、後の時代にいわゆる芸能六斎を許容しなかった光福寺をはなれ、空也堂(京都市中京区)の管轄にはいったことがうかがえる。ただし、空也堂が権威付けとして六斎念仏講中に下賜した免許状や金・銀太鼓などは、桂地蔵前六斎念仏に現在つたわっていない。

桂地蔵前六斎念仏は、人々の記憶にあるだけでも、数回にわたって中断の憂き目にあっている。一番古い記憶としては、明治42年(1906)10月13日に、コレラで主要メンバーが死亡し、その後30年間伝承がとだえた。昭和11年(1936)9月に復活し、その際譜本が作成された。その後戦争による中断があり、昭和25(1950)年に再開され、昭和34年(1959)頃までおこなわれていたが、やがて再び約25年間の中断を余儀なくされる。そして、後で詳しくのべるように、昭和58年(1983)に復活され、同時に桂六斎念仏保存会(後述)も組織されて、現在にいたっている。昭和58年(1983)1月、他の六斎念仏と共に、国の重要無形民俗文化財の指定をうけている。このように、「中断─復活」をくりかえしてきた経緯は、後述するように、六斎念仏の伝承に少なからず影響をあたえることとなった。

なお、下桂に隣接し、御霊神社付近に位置する集落、中桂にもかつては六斎念仏が伝承がされており、〈花づくし〉という演目もあったという。しかし、かなり以前に中絶してしまい(その際、下桂は衣裳類をもらいうけたという)、その詳細は不詳である。

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