日本伝統音楽研究センター

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凡例

日本語要旨

0 はじめに

1 旧下桂村と桂地蔵前六斎念仏の概況

2 桂地蔵前六斎念仏の民俗芸能誌

3 桂地蔵前六斎念仏の特質

4 桂地蔵前六斎念仏における伝承

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英語要旨

 

 

桂地蔵前六斎念仏 その特質と伝承をめぐってトップへ

3 桂地蔵前六斎念仏の特質

以上の記述をふまえると、桂地蔵前六斎念仏の特質としてどのような事柄がみえてくるであろうか。

芸物の多様性
まず第1にあげられることは、いわゆる芸物とよばれる、所作事・狂言・曲芸などの特定の芸を演じる演目が、京都の他所にくらべて多いということである。中でも能および壬生狂言などの大念仏狂言の影響が著しく、寸劇仕立てのものが多い(一部にはセリフもはいる)。たとえば、〈式三番叟〉〈娘道成寺〉〈土蜘蛛〉〈石橋〉などがそうであり、このうち〈娘道成寺〉〈土蜘蛛〉には、衣裳もふくめて大念仏狂言(特に壬生狂言)の影響が強く感じられる(ただし、〈娘道成寺〉はその名称にもかかわらず、旋律面で参照されたのは、長唄〈娘道成寺〉ではなく長唄〈傾城道成寺〉であり、その一部に「鐘入り」の部分が引用されている)。また、これに呼応して、小鼓が使用されたり、中ドロなどの膜鳴楽器が楽屋で陰打ちされたりするのも、桂地蔵前六斎念仏の特徴である。

芸物:〈土蜘蛛〉
〔写真13〕 芸物:〈土蜘蛛〉

一方、〈式三番叟〉のように、能との共通性は題目と登場人物、および冒頭のセリフ部分(第3段黒キ尉の祝福、踏みしずめの舞の序唱)のみであり、後の口唱歌は近世的な詞章となっている場合もある。また、〈石橋〉は能〈石橋〉の「獅子の舞」前後の部分をとっているが、近年になって、地元の人々のならっていた金剛流のものが援用され、改作されている。

また、他所と同様に、巷で見聴きしてきた様々な芸能の種目を巧みにとりこんでいる。たとえば、〈豊年踊り(かっぽれ)〉における願人坊主の〈かっぼれ〉および〈豊年踊り〉、〈お公卿踊り〉における幇間芸(詳細不詳)、〈南瓜〉における〈背戸の段畑〉(寄席において落語家がおどった踊りの曲〔平野・三田・影山 1975:131〕)、〈越後晒し〉における長唄〈越後獅子〉(終結部の詞章および「さらしの合方」)、〈猿廻し太鼓〉における猿まわし(口唱歌のいくつかは長唄の獅子物系統、一部に浄瑠璃〈大経師昔暦〉のおさん茂兵衛にちなむ詞章)である。大道芸から座敷芸、古典芸能と大変幅広いものとなっており、人々の芸能に対する好奇心と貪欲さをよみとることができる。

伝承によればこれらの多くは、下桂のお大尽達が、祇園に遊びにいっておぼえてきたものであるという。桂小学校の南に居住していた風俗史研究者の江馬務も、「舞踊・手振りを、祇園の芸妓から井上流を習ったり、能師から聞いたりして、演出したもので、その手振りに一段工夫をこらした」〔江馬・井上 1953:76〕とのべている。実に多種多様なものが受容されており、しかもそれぞれのエッセンスというべきものを大胆に省略化した形で抽出しており、六斎念仏の面目躍如たるところといえよう。

さらに、他の種目をほぼそのままの形で受容しながらも、大規模な構成をもったものにしたてた演目もある。京都祇園祭りの祇園囃子からの〈祇園ばやし〉と、大神楽における獅子舞からの〈獅子太鼓〉である。〈祇園ばやし〉では、六斎念仏でこの演目のみ、祇園祭りと同様の摺り鉦(一丁鉦)を枠から複数個つるして凹打ちし、鉦・太鼓(中ドロ)・笛共、祇園囃子をほぼ忠実になぞっている。ただし、あくまでも太鼓の芸が中心であることと、途中で綾笠鉾からならったという棒振りや、オカメ・ヒョットコが余興としてはいるところに、芸能尽くしとしての六斎念仏らしさがある。

芸物:〈祇園ばやし〉
〔写真14〕 芸物:〈祇園ばやし〉

増田雄氏の同定によれば、桂地蔵前六斎念仏の〈祇園ばやし〉は、京都祇園祭りの鉦のリズムパタンにおいて、函谷鉾および鶏鉾のそれに近いものとなっている(函谷鉾の囃子で相当する曲目:「曳出しの太鼓の打込み」、〈出 地囃子〉・〈出 若〉・〈唐子〉・〈出 地囃子〉、以上「渡り囃子」、〈鶴〉―〈朝日〉(挿入旋律あり)・〈梅〉―〈一(いち)二(にっ)三(さん)〉(笛は「渡りの笛」)・〈亀〉―〈四季〉・〈竹〉―〈流し〉(笛は「かっこの笛」)・〈末〉―〈神楽〉・〈千鳥〉―〈流し〉(笛は「渡りの笛」)・〈若〉、以上「戻り囃子」、「―」は必ずつづけてはやす曲目であることをしめす。函谷鉾および鶏鉾の囃子については、〔田井・増田 2000、2004〕を参照)。一方、笛の旋律パタンに関しては、京都祇園祭りの祇園囃子系統のものであることに間違いはないが、どの山鉾と似通っているという即断はできないという。むしろ、響きからくる印象は、同系統の囃子である、上野天神祭り(三重県伊賀市上野、参照)に近いものをうけるとのことである〔増田 n.d.〕。いずれにしても、桂地蔵前六斎念仏が何らかの経緯で、函谷鉾や鶏鉾といった京都祇園祭りの祇園囃子〔樋口・田井・増田 2000、田井・増田 2000、2004、2005a、田井 2007〕を受容し、それを巧みに消化して、様々な曲目の断片をモザイク状にくみあげて一つの作品にしあげたといえよう。

なお、西院六斎(西京区西院乾町)には、元禄年間(1688−1704)に、百姓新兵衛が月鉾の囃子をとりいれて工夫したという伝承がある〔芸能史研究会 1979:126〕。もしこの伝承が事実であり、下桂における受容も同時期であったとすれば、祇園囃子の六斎念仏化はかなり早い時期からおこなわれていたことになる。前述の同系統の囃子である上野天神祭りとの類似性と共に、祇園囃子の伝播・受容の時期や経路をかんがえる点で、大変興味深いものがある〔田井・増田 2005b〕。

一方〈獅子太鼓〉は、京都の芸能六斎の花形的演目である。桂地蔵前六斎念仏においては大きく、「獅子の呼び出し」(中ドロを中心とした合奏)と「獅子舞」の2つの部分からなる。「獅子舞」は更に、「獅子の登場」・「獅子の地廻り」(獅子がはいる時に、頭をふって威嚇する時の音楽)・「ションベ上がり」・「碁盤乗り」といった4つの部分から構成される。構成からいっても、上演時間からいっても、最も規模の大きな演目となっている。

「獅子舞」の後半部分では、獅子の逆立ち(俗に「ションベ上がり」とよばれる)、肩上がりやひっくり返りなどの獅子の曲芸が次々に演じられる。これらは伊勢系大神楽の獅子舞・獅子の曲芸の系譜をひくものとおもわれる〔北川 2000、山路 2000〕。このうち、一番の見せ場になっている「碁盤乗り」は大神楽には存在しないが、放下の曲芸に、碁盤の上に三方をつみかさねてその上で逆立ちをするものがある(「洛中洛外図屏風(眞野家本)[六曲一双]」、個人蔵(京都府立山城郷土資料館寄託)、寛文期以降〜18世紀初期)〔八幡市立松花堂美術館 2004〕。また、18世紀に中国(清国)より受容された軽業(上竿伎(かるわざ))にも、碁盤の上で逆立ちしている姿がみえる(『花洛細見図』(『宝永花洛細見図』)十一之巻、宝永元年(1704))〔野間 1968〕。おそらく京都の六斎念仏において、こうしたものが参照されて考案された趣向とかんがえられる。
ちなみに、獅子の碁盤乗りに使用する碁盤は、他所は5段つみかさねる際に碁盤の足がはいるように穴があけてあるが、下桂のものは平面で穴が無いのでぐらぐらし、演技は大変難しいという。

なお、他所においては、〈獅子太鼓〉と〈土蜘蛛〉を合体させる形で、獅子に土蜘蛛がからむ演出がおこなわれることが多いが、下桂ではそれぞれ単独の演目として演じられる。〈獅子太鼓〉と〈土蜘蛛〉を合体させる演出が登場したのはそれ程古いことではなく、幕末期とかんがえられ〔芸能史研究会 1979:185〕、その意味では下桂のそれは古い形態をたもっているといえるかもしれない。

〈青物づくし〉の存在
第2の特質としてあげられるのが、太鼓物の演目である〈青物づくし〉の存在である。桂地蔵前六斎念仏においては、芸物が多彩であり、純粋な意味での太鼓物の演目は数が比較的少ないが(〈青物づくし〉〈四つ太鼓〉〈八兵衛晒し太鼓〉)、その中でも異彩をはなっているのがこの演目である。〈青物づくし〉は、その口唱歌において、青物の名称を137種も列挙するというおもしろい趣向をもつ、長大な曲である。芸態的には、太鼓の表打ち(リーダー格、後述)同士の掛け合い、および「先打ち(あるいは前打ち)─後打ち」(グループ間の掛け合い、後述)が、太鼓を上下させる動作が顕著であるなど、変化に富んだものとなっている。

「朝瓜賀茂瓜 小芋芋頭 なが芋じねんじょ豆の葉 うみほほずき ぢゃくろ まる
めにかきくり 桃梨びわちしゃ 葡萄ほほずき めうがに蕗のと つくね芋薩摩芋 中抜かぶら菜に 干し柿 (トコ)ほほけに松茸 こうたけ なめたけ しめじにはつたけ くろかわののびき…(中略)…青とんがらし 鳥羽が焼けた」(〈青物づくし〉の口唱歌冒頭と終結部、『桂六斎念佛台本書』(昭和11年9月1日、謄写版より引用)

京都の六斎念仏における口唱歌では、一般の口唱歌にみられるように、楽器の音を擬声音でうたうもの(「テンテン テンツクツンツン」等)がある一方、引用・受容した演目の詞章あるいは内容的に意味のある独自の言葉をつらねてうたう点に特色がある。〈青物づくし〉の口唱歌は、後者に該当する。興味深いのは、曲の習得の際に口でうたえるようにこれらの口唱歌をおぼえ、本番でも小声でうたうにもかかわらず、見物客にはそれがほとんどわからず、したがってこの曲がなぜ「青物づくし」とよばれるのかについても全くしらない状況になっていることである。いわば「楽屋落」的な、一部の人々のみによる趣向ということになるが、桂地蔵前六斎念仏においては、大事な部分でおこなう六斎の中心的な曲とされる。事実、先述のように、曲目の構成には柔軟性があるものの、「冒頭の太鼓の合図─〈発願念仏〉─〈道行き〉─〈青物づくし〉」までが、一続きのものとして認識されていることからもその点は理解できる。

なお、〈青物づくし〉は、桂地蔵前六斎念仏の専売特許ではなく、吉祥院六斎(南区吉祥院菅西条組)にもかつて伝承されており、口唱歌もほとんど同じである〔芸能史研究会 1979:71〕。しかし、その他の所には全く無く、京都の六斎念仏の中での特異な演目であることは間違い無いであろう(ちなみに、吉祥院六斎とはかなりの演目が共通しており、系譜的な相互関係があった可能性がある)。

ところで山路興造は、六斎念仏におけるこうした「○○づくし」の趣向と、近世の流行歌謡、特に紅葉音頭や鉄扇節などの洛北の盆踊り歌との関連を示唆している〔芸能史研究会 1979:72〕。しかしながら、これらにおける尽くし物の詞章は技巧的にかなり凝ったものであり〔植木 1978、橋本 2004、横井 1967〕、品名を羅列していく六斎念仏のそれとは性格を異にするものである。

一方で、各地に伝承されている万歳には、尽くし物が多くみられる〔岡田・三隅・六戸部 1980〕。特に京阪でおこなわれていた門万歳の演目の一つである〈京の町〉(大和万歳では、〈胡椒舞〉がそれに相当)は、商売繁盛をいわう京の町の売り物尽くしとなっており、様々な品名と共に野菜類も羅列されている〔久保田 2005、前田 1966、盛田・森 1974、高橋・斎木・小坂 1965、岡田・三隅・六戸部 1980、鹿谷 2005〕。この〈京の町〉は、声聞師が千秋万歳の余興として演じたのを蓮如上人自身がかきとめたものが現存しており(一般に蓮如作の子守り歌という伝承がある)、15世紀後半までさかのぼれるものである〔高橋・源 1977〕。以下に、浄照坊蔵本からその詞章の一部を引用する。

「(略)山城ノ国カラ。モテデ、〔テ〕ウル物、キウリホソチシロウリ。ナスビヒシヤ
クカモウリ。アゴタウリニホタウリ。カラウリニヒメウリ。サコソアヂノアルラン〔メ〕。
ナウラウ。ニラウラウ。大コンウラウ、カハホネ。カブラウラウ、フキウラウ。(略)」
〔高橋・源 1977:53〕。

また、尾張万歳には、詞章の様式は違うが、〈青物づくし〉という演目がある〔岡田・三隅・六戸部 1980:41〕。以上のようなことから、〈青物づくし〉については、今後万歳の尽くし物との関わりからも考察されるべきであろう。

なお、延々と野菜の名称が列挙された後、一番最後に唐突に「鳥羽が焼けた」と唐突に今までの内容とは無関係の語句でおわっていることが、注目されるところである。これについて中村怜之輔氏は、この最終句は戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868)をさしており、「何もかもやけてしまって、これで幕府もおしまい」という意味がこめられているのではないかという指摘をされている。また、堅太鼓の掛け合いやリズムにも新味があり、他曲よりも新しい曲で、維新時に成立したとかんがえても不思議でないという(以上、筆者への教示による)。この辺りについては、前述の吉祥院との関わりもふくめて、今後の検討課題としたい。

また、旋律については、長浜祭りの起こし太鼓の曲との類似を指摘することができる(具体的には、前半部分の「中抜かぶら菜に…」から「かぼちゃきうりに 真桑瓜」の部分まで、中村怜之輔氏の筆者への教示による)。「起こし太鼓」は、特定の行事がある日の早朝に若衆や祭礼役員をおこしてまわるものであり、その旋律およびその名称は、曳き山の巡行時の囃子であるシャギリとは違った、それぞれの山によって独自のものになっている。このうち、〈青物づくし〉の旋律と同じなのは、筆者が〈桜囃子〉系(翁山・諌皷山・孔雀山・鳳凰山)とよんでいるものである。それは、歌舞伎の竹本において、人物の対話や動作の効果音楽として三味線で演奏される旋律であるメリヤスの一つ、〈春藤メリ〉と同一のものとなっている〔田井 1988〕。

なお、月宮殿と萬歳樓では、同曲を〈にわか〉あるいは〈べっぴんないか〉という名称で、元来の起こし太鼓の曲と共にはやしている。地元の人々によると、この曲は花柳界の歌曲からとられたもので、三味線をいれる時は芸子さんにきてもらってあるきながらひいてもらい、囃子および三味線にあわせて次のような歌詞でうたうこともあるという。

「べっぴんないかべっぴんないか へちゃばかり へちゃでもたんとすりゃよじゃないか」

旧長浜町内には花柳界があって芸子との交わりもあったので、この様な曲もはいってきたのではないかといわれている。現在は昭和天皇即位のご大典の際につくられた、次のような歌詞(「お大典」)を囃子にあわせてうたうことが多い。

「おーきよおきよとおこされて 小さい時から二親に わかれて苦労をいたします
[するわいな] 三輪高山石灯篭[彦九郎] 三輪高山石灯篭[彦九郎] 今宵はどなととそえてあらん[そえるやらん] こんな因果な者はない」

いずれにしても、花柳界でうたわれていた流行歌が、様々な形・経緯で、歌舞伎囃子や曳き山祭りの囃子、さらには六斎念仏にそれぞれ受容されたものとかんがえられ、大変興味深い。

太鼓の活躍
第3に、前述のように、桂地蔵前六斎念仏においては芸物の多さが一つの特質となっているが、同時に京都の他所と同様、太鼓の活躍にも重きがおかれている。上述の〈青物づくし〉をはじめとした純粋な意味での太鼓物の演目の他、桂地蔵前六斎念仏の中では長大な曲である〈猿廻し太鼓〉〈獅子太鼓〉などでも、太鼓の高度な技法を駆使する曲打ちがあり、見せ場となっている。特に堅太鼓には、「表打ち」と「かわ側打ち」がある。表打ちはリーダー格で1〜2名、側打ちはその他の大勢約10名で構成される。表打ちは装飾的なパタンをうち、側打ちは主に太鼓の縁(鋲打ちの部分)をうち、同じパタンをくりかえす。

また、演目によっては、堅太鼓および中ドロで「先打ち(あるいは前打ち)」と「後打ち」の組をつくり、掛け合いでうつ場合がある。後打ちがバチで太鼓の胴のみを規則的なパタンでくりかえしうつ間、先打ち(前打ち)は即興的で装飾的なパタンをうっていく。主導権は装飾的なパタンをうつ先打ち(前打ち)にある。場合によっては、両者がいれかわることもある。桂地蔵前六斎念仏においては、以上のような技法を適宜おりこむことにより、変化にとみ多彩な太鼓物の世界をつくりだしているのである。

太鼓物
〔写真15〕太鼓物

太鼓物:〈四つ太鼓〉
〔写真16〕太鼓物:〈四つ太鼓〉

 

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