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昭和の美学書としての『日本音楽の性格』について

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上野正章

1.『日本音楽の性格』はどのようにして成立したのか

彼の日本音楽研究は昭和12年からはじまる。大学を出て編集者として働いていたが、再び思うところあって大学院の門を敲いた。

私の下宿の近くをぶらぶら散歩しておられる大西教授に逢ったのである。
そして、私は言った。−
「もう一度大学院に入って、日本音楽の研究をやりたいのですが」。
すると、教授は、いつもの静かな調子で、
「そうだね。何んでも十年間一つのことをみっちりやれば物になるからね」 。
(*1)

大西教授とは当時美学の第一人者であった大西克礼である。自伝『邦楽と人生』には人生の分岐点がさり気なく記されている。

邦楽と人生
『邦楽と人生』

彼の日本音楽美学の最初の業績が発表されたのは、昭和17年であった。「日本音楽美学の建設」である。内容は日本音楽美学に対する研究の意義・目的、内容、方法である。彼は次のように国産の音楽美学を立ち上げることを鼓舞する。

日本音楽と西洋音楽ではその発展の方向が違ふのである。メートル尺を中心にして云へば、日本の物差は半端な不完全なものに違ひない。然し日本の尺から云へば寧ろメートル尺こそ半端な不完全なものなのである。我々は学問や芸術の上に於いてこの事を体験する。日本の芸術、日本の音楽は日本の尺で作られたものである。之をメートルで測ることの不適当なことは国民学校の児童にも明かであらう。そこに日本の音楽のための物尺即ち「日本音楽美学」の建設の必要性があり、存在理由があるわけである 。(*2)

 

国産日本音楽美学への熱い思いが行間から読み取れる。下図は吉川による日本における美学、芸術学の研究の系譜図である。現状を分析し、採るべき道を指し示す。
彼は、日本音楽研究には、三つの方向があるとする。それぞれ、1.西洋の音楽美学でもって日本音楽(作品)を取扱う方法、2.日本美学でもって日本音楽(作品)を取扱う方法、3.日本音楽学と日本美学とを結合させたものである。
最初の二つを退け、彼が選択するのは、日本音楽学と日本美学の結合の可能性である。ここでいう日本音楽学というのは、「日本音楽史及日本音楽理論等一切を包含したもの」(*3)である。もっとも、「現在の段階に於いては、この両者の孰れもその緒に着いたばかりである。況してそれの上に立つ総合的な日本音楽学の設立は今後に属する問題である」 (*4)と記してこれ以上は語らないが。この文章は「[日本音楽美学は]筆者の畢生の課題であると共に、日本音楽学の最終の目的ではなからうか」(*5) という言葉で締め括られている。

日本音楽美学の建設
「日本音楽美学の建設」
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この日本音楽美学論に基く予備研究が、翌18年4月から10月に亘って同じく『音楽公論』誌上に連載された「日本音楽観序説」である。編集者から日本人の音楽観について歴史的に纏めて欲しいという依頼を受け、「諸書に散見する芸談や見聞記等を土台にして、日本音楽と云ふ世界の特殊な雰囲気を描き出し、其処に我等の祖先の音楽に対する考方を引出す」(*6) ことが試みられる。

日本音楽観序説
「日本音楽観序説」
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吉川は日本音楽についての用語の反省から執りかかる。議論されるのは、あそび、楽、雅楽、囃子という用語である(第1回)。次いで、日本音楽を奏でる営みが検討される。ここでは、楽器、作曲、演奏、音楽家、演奏の態度という5項目、つまり、ある音楽が作られ、演奏される際にどのような考え方に基いて営まれるのかということが詳述される(第2回)。続く「芸道としての日本音楽」では日本音楽観が歴史的に考察され、平安時代から鎌倉時代になると、日本の音楽が「あそび」から「芸道」に変化したことが豊富な事例とともに紹介され、これが仏教に由来するもので、現在でも行われていることが指摘される(第3回)。続く第4回、第5回は第3回で言及された芸道における特訓の事例を紹介するもので、稽古における鍛錬の実際が詳細に描写される。第6回は秘伝、第7回は許し制度−免状の意義で、ここにおいて日本音楽の非合理性と見なされてきたこれらのシステムが伝承の際に有効に機能していることが示される。

宮城道雄に関して英文論文を執筆したり、三味線研究で学術発表を行ったり、この時期活発な研究が続くが、彼は同時期『音楽研究』誌に「日本音楽の性格とその背景 日本音楽に於ける音の世界観的解釈」というまた別の美学論文も発表している。これは、西洋人は音を素材として音楽を組み立てるが、日本人は音それ自体を聴取し音色を楽しむことに注目し、「日本人の音色尊重主義が如何なる形で日本音楽に現れてゐるかを」(*7) 明らかにし、その根源を日本人の自然観に求めるというものである。音と日本人のかかわりを議論したこの論文は、サウンドスケープ論としても興味深い。

日本音楽観序説
「日本音楽観序説」
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そしてそれらの仕事をまとめて本を作ることを試みたのであるが……。

本書は恩師と養父の還暦の年たる昭和十八年の暮までに出版される予定で取急いで書かれたが、最初の契約店たる古賀書店が企業整備のため、印刷を中止し、佐藤芳彦氏の御尽力で「わんや」書店が発行を引受けられたが、これ亦、組版が戦災に逢ひ再び中断された。然し幸運にも罹災を免れた原稿により、四年後の今、世に出ることになった 。(*8)

 このようにして、漸く『日本音楽の性格』は昭和23年に出版された。

下表右が目次で左がもとになった論文タイトルである。

  1. 日本音楽の特殊性(序論)
  2. 日本音楽の倫理性
    • 礼楽思想とその影響
    • 和敬清寂の精神と日本音楽・・・・・・・・・・・・「日本音楽観序説」(第2回)
  3. 仏教の日本音楽に及ぼしたる影響・・・・・・・・・・「日本音楽観序説」(第3、4、5、6、7回)
  4. 日本音楽に於ける「型」の尊重
  5. 音楽用語に現われたる日本人の音楽観・・・・・・「日本音楽観序説」(第1回)
  6. 日本的自然観の音楽への影響・・・・・・・・・・・・・・「日本音楽の性格とその背景」
  7. 日本音楽の過去と将来(結論)

日本音楽に生きる礼楽思想を示し、茶道の精神を援用して日本音楽の精神を解き明かし、仏教の日本音楽に於ける影響を議論した後、「型」に込められた日本音楽の精神が解説される。そして、日本音楽用語に現れた音楽観と日本的自然観の音楽への影響が議論される。
「メートル尺に合せて作つた物を曲(かね)尺で計れば半端物の極印が押されよう。反対に、曲尺で作つた物をメートル尺で計れば、之亦半端物と言はれよう。日本音楽を西洋音楽の理論で云々することは、全くこれと同じ理屈であるのに、何故気付かぬのであらうか」(*9) という文章は、「日本音楽美学の建設」を思い起こさせる。

なお、昭和21年に発行された『音楽芸術』誌に掲載された「音楽時評」で吉川は、今後の日本音楽について、「新しい日本の音楽の在り方は、洋楽への模倣性を高めることではなく、洋楽の手法を利用して、邦楽と云ふ新たなる色を加へて、日本の心を、日本の美を−実に我等自身の魂を歌ひ上げると云ふことでなくてはならぬ」(*10) という主張を行う。この意見は、『日本音楽の性格』の最終章にも受け継がれた。日本音楽の在り方について過去を墨守するのではなく、日本音楽の精神を汲み取つておけばよい、そのような伝統にしつかりと根を下ろしていれば良いと記した後、「古人も和魂漢才と言つたではないか。私は現在之を訳して『和魂洋才』と呼び度いのである。すなわち精神さへ日本を忘れなかつたならば、技巧は大いに西洋の長を取入れてよいのである。またそこに日本音楽の発展もあるのである」 と彼は主張する。これは、「日本音楽美学の建設」の中で吉川が主張していた日本音美学の構築に際して西洋の美学や音楽学を援用しても差支えないという考え方にも通じる。

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  • * 1. 吉川英史『邦楽と人生』創元社、1969年、p.22.
  • * 2. 吉川英士「日本音楽美学の建設」『音楽公論』第2巻第5号、音楽評論社、1942年、p.21.
  • * 3. 同書、p.22.
  • * 4. 同書、p.22.
  • * 5. 同書、p.24.
  • * 6. 吉川英士「日本音楽観序説 用語に表れたる音楽観」『音楽公論』1943年4月号、音楽評論社、1943年、p.18.
  • * 7. 吉川英士「日本音楽の性格とその背景 日本音楽に於ける音の世界観的解釈」『音楽研究』第1巻、日本音楽文化協会、1942年、p.9.
  • * 8. 吉川英士『日本音楽の性格』わんや書店、1948年、p.8.
  • * 9. 同書、pp.6-7.
  • *10. 吉川英士「音楽時評」『音楽芸術』第4巻第6号、音楽之友社、1946年、p.25.
  • *11. 吉川英士『日本音楽の性格』わんや書店、1948年、p.246.

最終更新日:2007/11/08 | 公開日:2007/09/04