| はじめに | 1.五十音図の変遷について | 2.音図の発生と発展 | 3.音曲で用いられる音図 |
龍城千与枝
明治六年の『小學讀本』では、「国字五十音」として、表1のように、五十の文字が掲載されている。
ところが、近年の小学生向けの国語教科書では、以下の表のように、107の音を抽出した「ひらがなのひょう」が掲載されている。
一見して文字の数が違うとわかるこの変化の背景には、近代の言語学の輸入が影響している。近代の言語学では、音韻とは「意味の弁別をなす最小の音声単位であるphonomeの訳語である」と考えられているため、日常生活でコミュニケーションに用いる日本語の音韻は、表2の通り、五十音よりも多く存在することから、その不都合性を訴えた結果、このような変化がきたされたのである。
長らくの間日本語の音韻表と信じられてきた五十音図は、実は音韻表ではなかった。五十音図はいったい誰が何のために作ったものなのか、その謎を追求した研究に、国語学者馬渕和夫氏の『五十音図の話』がある。馬渕氏の研究によって、江戸時代にまでの日本で出版された五十音図には、悉曇学系(声明系)と韻学系(中国音韻学系)の二つの学問が関係していることが明らかにされた。
しかし、平安時代、今から千年以上も前に、五十音図完成させた悉曇学系の学者たちが、何のために五十音図をつくったのかは、いまだ解明されていない。ここでは、とくに、音曲の秘伝書に悉曇学系の音図が用いられていることに注目するが、本題に入る前に、五十音図の歴史を簡単に振り返っておきたい。