北脇:〈高砂〉についておうかがいしたいと思います。他の脇能と比較して〈高砂〉にはどんな音楽的特徴がありますか?
吉阪:他の脇能と比較して何か特徴があるかといったら特にありません。でも僕の中では〈高砂〉は特別です。昔から能の中でも〈高砂〉は特別と言われてきたのですが、実際、小書(特殊演出)も他の脇能より多い。〈翁〉付きやったら〈高砂〉で勤めたいなと思います。夫婦円満、和歌の礼讃、松のめでたい謂れ、御代を寿ぐ、仏教色のないスキッとした純和製というか、〈翁〉と同様に世の中の基本を表した曲だと思います。「相生の松風颯々の声ぞ楽しむ」という、その松の風っていうのは、すなわち高砂の住吉の神。風は見えるもんじゃないけど、その風に、僕は神を感じる。〈高砂〉はその風を感じられるように勤めたいです。
北脇:〈高砂〉で舞われる「神舞」について教えていただけますか。
吉阪:神舞っていうのは字の如く神様が舞う舞ですよね。真ノ序之舞も神様が舞う舞ですが、老体の神様は真ノ序之舞を舞い、若い神様は颯爽と神舞を舞う。神舞は速さと強さが重要だと思います。速さというのは、実際のテンポの速さもさることながら、颯爽として聞こえないといけない。速さが神の威光を表す大事な要素だと考えています。ただ、速いだけではダメで、速さと強さは一体。強さは掛け声が重要になります。〈高砂〉に比べると〈養老〉の神舞はそんなに速くしないですね。これは解釈の問題ですけど、〈養老〉は山の神様、それに対して〈高砂〉は海の神様。山の神様はどっしりしているというイメージだから速くしないというふうに聞いてます。ただ水波ノ伝という小書になると、滝の水の流れにフォーカスするので、逆に常の神舞よりも速くする。水の流れと速さっていうのも関係があると考えれば腑に落ちます。特に〈高砂〉は、波間に住吉の神が現れる場面なので。〈高砂〉の神舞が、神舞の中で一番速度が速いっていうふうに認識しています。それによって曲の格式の高さを表します。聞いていて実際の速度はそんなに差はないのだけれども、そういう心構えで勤めるのが〈高砂〉。〈高砂〉と〈弓八幡〉この二つが真ノ神舞で、〈弓八幡〉は〈高砂〉に準ずる真ノ神舞という扱いになっていると習いました。他のものは草ノ神舞という扱いで、昔は真と草をはっきり区別して演奏いていました。
北脇:笛の調子が変わることで、先生が演奏される際にも演奏の仕方は何か変わったりはしますか?
吉阪:調子が高くなったら、掛け声を高くする。
北脇:ああ。それに合わせて。
吉阪:という心持かな。実際にどうなっているかは別として。
北脇:鼓を演奏される分にはそこまで変化というのは。
吉阪:特にないです。
荒野:盤渉になると、調子が上がりますが、スピードに関しては何か影響がありますか。
吉阪:あると思います。舞の最初から盤渉のままなら変わらないと思いますが、〈養老〉の水波ノ伝みたいに最後の段だけ盤渉にするというふうな形をとると、そこでもうひとつギアが上がります。その効果を狙って神舞の最後を盤渉に変えるんだと思います。それから盤渉にすると明るくなりますよね。明るく聞こえる分、速く聞こえるっていうことはあるかもしれません。
北脇:神舞を演奏する上ではやっぱり速いっていうことで、体力とか気力も使って、難しい場面になりますか。
吉阪:例えば〈高砂〉でしたら神舞が終わったところで、「ヒイー(笛)イヤー、ヤ、ハ、(大鼓の掛け声)ホー、チ(小鼓の手)」って、少し間が空くんです。そこまでトップスピードできて、ピタッと止まって、そのほんの数秒間打たないところで、自分の息が上がってるのがわかります。神舞から打ち続けてたら気になりませんが、一旦止まるので、そこでハアハアとなってますよ。打っている間はとにかく速さに遅れないようにするのが精いっぱいです。
吉阪:シャキッとする感じかな。さあこれから〈高砂〉を打つぞ!みたいな。理由は、冒頭のワキの登場曲、真ノ次第っていうのがトップギアから始まるんです。いきなり掛け声を張り上げないといけないし、スピードも速い。こんな始まり方するのは脇能以外にないので、気を引き締めるような感じ。〈翁〉の緊張感とはまた違います。〈翁〉もしんどいんですけど、頭からそんなトップギアではないので。
例えば初同の「四海波静かにて。国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。」という御代を寿ぐ言葉があるんですけど、そこの間に打つ手っていうのは、ツゞケという同じフレーズをずっと打っていくだけなんです。普段やったら謡を聞いて、謡を囃すように打ってるのに、ここでは全くそれがない。ただまっすぐ打つ。〈高砂〉は、技巧的ではないはやし方を真ノ次第にも初同にも、神舞にもあるので、シャキッとするという表現になるのかな。
関本:すごいフェーズから入ると、お客さんも聞いてしまいますもんね。
吉阪:うまく打つとかいい音で打つっていうことよりも、もっと大事なことが脇能には凝縮されてると思います。
前川光範さんの太鼓は、特に神舞はいつでもすっごい気迫で打ってこられるので、それに負けんとこと思って頑張るんですけども、そういうことが相乗効果で全体が押し上げられて、お客様が何かを感じ取ってくださるものなのかなと考えてます。とにかく一生懸命、なりふり構わず、ペース配分とか考えないで、さっきのトランスの話じゃないですけども、限界を越えるくらいじゃないと目指すところには到達できないんと違うかなと思います。それが好みだという人も、好ましくないと思う人もいるかもしれないけれど、高砂はそんなふうに勤めたいです。
〈高砂〉を打てなくなったら引退!と考えてるんですけどね。(笑)
北脇:その気迫とかもお客さん絶対感じますもんね。
荒野:いつも先生の演奏を聞いていて、音は柔らかいんだけども、声がすごく力強いと感じます。
吉阪:昔、大倉長十郎先生に祖父のお素人会で一調〈橋弁慶〉を打っていただきました。謡は先代の金剛宗家で、録音が残ってますけど、それはもうすっごい迫力のある掛け声なんです。後に祖父が、あれはやりすぎやって言ってたのをよく覚えています。どこか度が過ぎてるというか。僕は破綻って言ってるんですけど、人の生命力みたいなものが溢れ出て、破綻する寸前の緊張感が能の魅力だと思います。能独特の表現方法の一つとして掛け声をかけるわけだから、緊張感に繋がらないといけないと思ってます。謡と鼓のまさに一騎打ちみたいな一調でした。僕はそんな緊張感のある舞台が好きです。例えば勢い余って舞台から落ちるとか尻餅つくとか、そういうことも稀にあるじゃないですか。たとえ落ちたとしても、もちろん落ちん方がいいに決まってるんですけど、その勢いっていうのは絶対に必要なんです。これは極端な例ですけども、一緒に同じ舞台に立ってる人には、破綻を恐れない勇気を持っていて欲しいと思います。
北脇:今回の会場が堀場記念ホールという新しいホールになります。反響の仕方とか、広さも能楽堂と変わるところがあるかと思うのですが、ホールで演奏されるときに何か工夫されることはありますか。
吉阪:会場に入ってしまったら工夫のしようがありません。もし事前に会場でリハーサルがあれば、本番に持っていく鼓を変えたりします。
荒野:鼓はいくつか持っていかれるのですか。
吉阪:いつも2調持っていきます。鼓が響くか響かないかっていうのは結局会場次第でしょ。あとは空調の具合とか。これはどうしようもないことなので、響かない時は諦めます。
関本:今度のホールはオペラ型のホールになるから、やっぱり響きが違うとかそういうのがあるかなと。
北脇:人によっては大きいところだとすっごい頑張って声張り上げようとして、いつもとちょっと調子が狂っちゃうとかそういうこともあるっていうふうにお聞きしたのですが、先生が演じられる場合にはいつも通り?
吉阪:器用じゃないから、どこでもあまり普段と変わりません。声や音が返ってこなかったら、ムキになって強くなってしまうとかはあるのでしょうけどね。
関本:シテ方とか狂言方とかになってくると、やはりセリフがあるから、かすれちゃった場合まずいというのはあるでしょうね。
吉阪:多分、そこは上手く伝わってないのかもしれませんが、掛け声は大声を張り上げてるわけではないんです。大きい声っていうよりも強い声。常に強い声を出そうとしていて、ボリュームが大きいか小さいかは別問題。例えば静かな曲で大きいボリュームの掛け声っておかしいでしょ。たとえ小さなボリュームにしたとしても、強くかけてるつもりです。静かなものの中にも強があって、自分では強さは常に100%でやってるつもり。どんなに静かな曲でもです。ここが掛け声の難しいところなんです。
北脇:続いて、京都芸大との関わりなんですけども。
吉阪:お世話になってます。
北脇:今までどういう形で関わってこられたか、京都芸大の大学や学生についてのイメージがあれば。
吉阪:藤田先生の企画された伝音セミナーに出演したのが初めてです。それまで大学へは行ったこともなかったです。なのでお話できるほどの関わりはないのですが、これから能に関する活動や研究を、学生さんや一般の講座なんかでも広めてもらうような活動していただけたら非常にありがたいなと思っています。
北脇:京都駅の近くに移転するので、能楽堂もだいぶ近くなりますね。
吉阪:そうですね。大学に能の部活があるそうですね。
北脇:はい。それがですね、部員が私含めて3人になっちゃったんです。
吉阪:3人いれば大丈夫です。まだまだ挽回できる。
関本:変わってるのが、金剛流しかないっていうところなんです。京都駅になれば、他の大学の学生さんとかも呼べるし、金剛流で学びたい方は、部活がもしもなければそこに合流することもできますし。
吉阪:能の何が面白いかっていうことを伝えられなかったら誰も寄ってこないですから、そこをうまく、ここが魅力だっていうことを伝えられるような活動をすることが大事だと思います。
北脇:最後に、この記事を読んでくださっている方に公演に来てくださるようにメッセージをお願いします。
吉阪:〈翁〉は儀式のようなもので、ストーリーはなく、五穀豊穣、天下泰平を祈るものなので、何の知識もなくても見ていただけると思いますが、さっき言ったように、向き合うところではこういう意味があるとか、三番三の中で種をまいたり、地面を踏みならしたり、少し予備知識があるとより楽しめると思います。音楽的にも盛り上がって体が自然に動き出すような作品なので、ぜひ見ていただきたいです。おそらく我々日本人のDNAに埋め込まれたワクワクするものが〈翁〉の中に発見できると思います。
〈高砂〉は、役者の演じる気迫を感じてもらえたら嬉しく思います。また能を見たいと思ってもらえるように破綻ギリギリで演ずるつもりですので、皆さんぜひ見に来てください。
吉阪一郎氏に聞く#1 | 吉阪一郎氏に聞く#2 | 吉阪一郎氏に聞く#3 |
昭和40年(1965年)生まれ、小鼓方大倉流。幼少より故祖父 吉阪修一に稽古を受け、昭和50年 独鼓〈竹生島〉で初舞台。昭和61年大倉流小鼓十六世宗家 大倉源次郎師に内弟子入門。平成3年独立。これまで「獅子」「乱」「鷺」「道成寺」「卒都婆小町」「鸚鵡小町」「姨捨」などを披き、世界各国での能公演に参加。社中の会「若葉会」主宰。日本能楽会会員。国立能楽堂研修課程講師。重要無形文化財保持者(総合認定)。
出演者インタビュー
エッセイ
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