根本千聡 (日本伝統音楽研究センター特別研究員)
―千秋楽には民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ。
謡曲《高砂》に出てくる詞章です。この《千秋楽》と《萬歳楽》はどちらも、現代を生きる私たちにとって馴染みの深い言葉でしょう。「千秋」とは千回の秋、「萬歳」とは一万年のことですから、要するに、何かが非常に長い年月続くことを祈念する、おめでたい意味をもつ文句です。では、《千秋楽》、《萬歳楽》の「楽」とはどういうことかといいますと、これは音楽のことを指しています。つまり、《千秋楽》と《萬歳楽》は曲名。実は、どちらも雅楽の楽曲のことなのです。
能では、時代的に先行する芸能である雅楽からさまざまな言葉や概念を流用しています。音楽理論のように実質的なものから、思想などの観念的なもの、少し変わったところでは、《玄象》のように雅楽史上の人や物、説話を題材として借りてきた作品もあります。有名な謡曲《石橋》に、「獅子、団乱旋の舞楽の砌」という詞章があらわれますが、この《師子》(獅子)と《団乱旋》も雅楽の曲名です。「舞楽」というのは舞をともなう雅楽の演目を指します。むかしの人々にとって雅楽は、先行芸能として比較的馴染みのあるものであったのでしょう。
話を戻しまして、《千秋楽》と《萬歳楽》です。今回はこの両曲について、どうした背景によって詞章として採り入れられたのかを、簡単に考えてみたいと思います。
《萬歳楽》
この曲は古来大変に親しまれてきた舞楽曲で、歴史資料上の演奏記録が多くみられ、現在でも頻繁に上演されています。雅楽において舞をともなう曲の大半は唐から伝えられた楽曲で、この《萬歳楽》は一説に、隋の煬帝によって作られたものであるとされます。中世には、御笛始(天皇が笛を初めて吹き習う儀式)の際に用いられてもいたようで、平易でありながら長く愛奏される楽曲であったことがうかがえます。
《千秋楽》
この曲も現在では演奏機会の多い楽曲ですが、《萬歳楽》とは異なり、舞のともなわない器楽曲として伝わっています。といいますのも、実はこの曲、唐から伝えられたものではなく、11世紀ごろに日本で作られた新作曲であったようなのです。このあたりの事情を詳しく記す『教訓抄』(1233年)によれば、源頼吉という楽人が後三条院(1068年即位)の大嘗祭のために作った曲であるとされます。事実、10世紀以前の資料にはことごとく《千秋楽》の名はみえず、資料上の初見は12世紀以降のものになりますので、頼吉による作曲という伝はおそらく正しいのでしょう。
さて、このようにして両曲の由緒をみてみますと、まるで関係性のようなものは見出せません。なぜこの両曲名が能の詞章に採り入れられたのか、ここから考えることは難しいと言わざるを得ないでしょう。……実をいいますと、それもそのはず。詞章にあらわれる《千秋楽》と《萬歳楽》は、どちらも雅楽の曲名とは直接関係しない言葉であるとみられるのです。
先に掲げた《石橋》には、「万歳千秋と舞ひおさめ」という詞章があらわれます。この「万歳千秋」(千秋万歳)について、藤原明衡『新猿楽記』(11世紀)は「猿楽見物許之見事」として、数多くの芸能のうちに「千秋万歳之酒禱」を挙げています。結論からいってしまいますと、詞章の指す《千秋楽》、《萬歳楽》は、こちらの「千秋万歳」のことではないかと考えられるのです。
この「千秋万歳」とは、『日本国語大辞典』によれば、「千年万年。転じて、永久、永遠。また、それを願うことば。長寿を祝うことば。」とあります。資料上の初出は『続日本紀』天平8年(736)11月17日条で、葛城王ほかの人々が橘宿禰姓を賜わった際の聖武天皇の言葉として記録されています。すくなくとも雅楽の《千秋楽》よりはずっと古い由緒をもっていそうですし、祝言の詞章としてもふさわしいものといえるでしょう。11世紀になってから頼吉によって作られた《千秋楽》というのも、こうした「千秋万歳」という言葉が先にあり、それにあやかってつけられた曲名だったのではないでしょうか(※)。
では、そうしてみますと、なぜ冒頭に掲げた《高砂》の詞章には「千秋〈楽〉」、「萬歳〈楽〉」とあるのでしょう。これはあくまでも推測に過ぎませんが、この「楽」は、一種の囃子詞であって、それ以上の意味は無いのではないでしょうか。つまり、まず「千秋万歳」というお祝いの文句が先にあり、そのうえで、詞章としてのリズムを整えるため、雅楽の曲名を借りてきて「千秋〈楽〉」、「萬歳〈楽〉」とした……というのが、実際のところなのではないかと考えます。その背景には、往時の能を享受した人々には、雅楽に関する知識が通念として存在していた、ということでもあるのかもしれません。
(※)ただし、唐の『教坊記』(8世紀)には、当時通行したとみられる曲の一覧中に「大曲」として《千秋楽》の名が見出せる。このことから、一度失伝していたものを頼吉が復興した可能性なども考えられるが、それを論じるだけの資料的根拠は管見に及ばない。
根本千聡
日本伝統音楽研究センター特別研究員。古代・中世における雅楽の研究が専門。
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エッセイ
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