日本伝統音楽研究センター

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凡例

日本語要旨

0 はじめに

1 旧下桂村と桂地蔵前六斎念仏の概況

2 桂地蔵前六斎念仏の民俗芸能誌

3 桂地蔵前六斎念仏の特質

4 桂地蔵前六斎念仏における伝承

謝辞

文献資料

音響資料

映像資料

英語要旨

 

 

桂地蔵前六斎念仏 その特質と伝承をめぐってトップへ

3 桂地蔵前六斎念仏の特質

〈青物づくし〉の存在

第2の特質としてあげられるのが、太鼓物の演目である〈青物づくし〉の存在である。桂地蔵前六斎念仏においては、芸物が多彩であり、純粋な意味での太鼓物の演目は数が比較的少ないが(〈青物づくし〉〈四つ太鼓〉〈八兵衛晒し太鼓〉)、その中でも異彩をはなっているのがこの演目である。〈青物づくし〉は、その口唱歌において、青物の名称を137種も列挙するというおもしろい趣向をもつ、長大な曲である。芸態的には、太鼓の表打ち(リーダー格、後述)同士の掛け合い、および「先打ち(あるいは前打ち)─後打ち」(グループ間の掛け合い、後述)が、太鼓を上下させる動作が顕著であるなど、変化に富んだものとなっている。

「朝瓜賀茂瓜 小芋芋頭 なが芋じねんじょ豆の葉 うみほほずき ぢゃくろ まる
めにかきくり 桃梨びわちしゃ 葡萄ほほずき めうがに蕗のと つくね芋薩摩芋 中抜かぶら菜に 干し柿 (トコ)ほほけに松茸 こうたけ なめたけ しめじにはつたけ くろかわののびき…(中略)…青とんがらし 鳥羽が焼けた」(〈青物づくし〉の口唱歌冒頭と終結部、『桂六斎念佛台本書』(昭和11年9月1日、謄写版より引用)

京都の六斎念仏における口唱歌では、一般の口唱歌にみられるように、楽器の音を擬声音でうたうもの(「テンテン テンツクツンツン」等)がある一方、引用・受容した演目の詞章あるいは内容的に意味のある独自の言葉をつらねてうたう点に特色がある。〈青物づくし〉の口唱歌は、後者に該当する。興味深いのは、曲の習得の際に口でうたえるようにこれらの口唱歌をおぼえ、本番でも小声でうたうにもかかわらず、見物客にはそれがほとんどわからず、したがってこの曲がなぜ「青物づくし」とよばれるのかについても全くしらない状況になっていることである。いわば「楽屋落」的な、一部の人々のみによる趣向ということになるが、桂地蔵前六斎念仏においては、大事な部分でおこなう六斎の中心的な曲とされる。事実、先述のように、曲目の構成には柔軟性があるものの、「冒頭の太鼓の合図─〈発願念仏〉─〈道行き〉─〈青物づくし〉」までが、一続きのものとして認識されていることからもその点は理解できる。

なお、〈青物づくし〉は、桂地蔵前六斎念仏の専売特許ではなく、吉祥院六斎(南区吉祥院菅西条組)にもかつて伝承されており、口唱歌もほとんど同じである〔芸能史研究会 1979:71〕。しかし、その他の所には全く無く、京都の六斎念仏の中での特異な演目であることは間違い無いであろう(ちなみに、吉祥院六斎とはかなりの演目が共通しており、系譜的な相互関係があった可能性がある)。

ところで山路興造は、六斎念仏におけるこうした「○○づくし」の趣向と、近世の流行歌謡、特に紅葉音頭や鉄扇節などの洛北の盆踊り歌との関連を示唆している〔芸能史研究会 1979:72〕。しかしながら、これらにおける尽くし物の詞章は技巧的にかなり凝ったものであり〔植木 1978、橋本 2004、横井 1967〕、品名を羅列していく六斎念仏のそれとは性格を異にするものである。

一方で、各地に伝承されている万歳には、尽くし物が多くみられる〔岡田・三隅・六戸部 1980〕。特に京阪でおこなわれていた門万歳の演目の一つである〈京の町〉(大和万歳では、〈胡椒舞〉がそれに相当)は、商売繁盛をいわう京の町の売り物尽くしとなっており、様々な品名と共に野菜類も羅列されている〔久保田 2005、前田 1966、盛田・森 1974、高橋・斎木・小坂 1965、岡田・三隅・六戸部 1980、鹿谷 2005〕。この〈京の町〉は、声聞師が千秋万歳の余興として演じたのを蓮如上人自身がかきとめたものが現存しており(一般に蓮如作の子守り歌という伝承がある)、15世紀後半までさかのぼれるものである〔高橋・源 1977〕。以下に、浄照坊蔵本からその詞章の一部を引用する。

「(略)山城ノ国カラ。モテデ、〔テ〕ウル物、キウリホソチシロウリ。ナスビヒシヤ
クカモウリ。アゴタウリニホタウリ。カラウリニヒメウリ。サコソアヂノアルラン〔メ〕。
ナウラウ。ニラウラウ。大コンウラウ、カハホネ。カブラウラウ、フキウラウ。(略)」
〔高橋・源 1977:53〕。

また、尾張万歳には、詞章の様式は違うが、〈青物づくし〉という演目がある〔岡田・三隅・六戸部 1980:41〕。以上のようなことから、〈青物づくし〉については、今後万歳の尽くし物との関わりからも考察されるべきであろう。

なお、延々と野菜の名称が列挙された後、一番最後に唐突に「鳥羽が焼けた」と唐突に今までの内容とは無関係の語句でおわっていることが、注目されるところである。これについて中村怜之輔氏は、この最終句は戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868)をさしており、「何もかもやけてしまって、これで幕府もおしまい」という意味がこめられているのではないかという指摘をされている。また、堅太鼓の掛け合いやリズムにも新味があり、他曲よりも新しい曲で、維新時に成立したとかんがえても不思議でないという(以上、筆者への教示による)。この辺りについては、前述の吉祥院との関わりもふくめて、今後の検討課題としたい。

また、旋律については、長浜祭りの起こし太鼓の曲との類似を指摘することができる(具体的には、前半部分の「中抜かぶら菜に…」から「かぼちゃきうりに 真桑瓜」の部分まで、中村怜之輔氏の筆者への教示による)。「起こし太鼓」は、特定の行事がある日の早朝に若衆や祭礼役員をおこしてまわるものであり、その旋律およびその名称は、曳き山の巡行時の囃子であるシャギリとは違った、それぞれの山によって独自のものになっている。このうち、〈青物づくし〉の旋律と同じなのは、筆者が〈桜囃子〉系(翁山・諌皷山・孔雀山・鳳凰山)とよんでいるものである。それは、歌舞伎の竹本において、人物の対話や動作の効果音楽として三味線で演奏される旋律であるメリヤスの一つ、〈春藤メリ〉と同一のものとなっている〔田井 1988〕。

なお、月宮殿と萬歳樓では、同曲を〈にわか〉あるいは〈べっぴんないか〉という名称で、元来の起こし太鼓の曲と共にはやしている。地元の人々によると、この曲は花柳界の歌曲からとられたもので、三味線をいれる時は芸子さんにきてもらってあるきながらひいてもらい、囃子および三味線にあわせて次のような歌詞でうたうこともあるという。

「べっぴんないかべっぴんないか へちゃばかり へちゃでもたんとすりゃよじゃないか」

旧長浜町内には花柳界があって芸子との交わりもあったので、この様な曲もはいってきたのではないかといわれている。現在は昭和天皇即位のご大典の際につくられた、次のような歌詞(「お大典」)を囃子にあわせてうたうことが多い。

「おーきよおきよとおこされて 小さい時から二親に わかれて苦労をいたします
[するわいな] 三輪高山石灯篭[彦九郎] 三輪高山石灯篭[彦九郎] 今宵はどなととそえてあらん[そえるやらん] こんな因果な者はない」

いずれにしても、花柳界でうたわれていた流行歌が、様々な形・経緯で、歌舞伎囃子や曳き山祭りの囃子、さらには六斎念仏にそれぞれ受容されたものとかんがえられ、大変興味深い。

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