京都において観世流の謡を伝えてきた主要な家のひとつに岩井家がありました。明治時代、能役者としての岩井の芸の系統は、大西家や大江家等の弟子家に引き継がれましたが、その後も京都の謡の「五軒家」のひとつである岩井の謡は、素謡を楽しむたくさんの素人を生み出し、昭和の中頃までは、「岩井派/岩井流」をなのる素人の謡い手も存在していました。いわゆる「京観世」の謡の様式や、近代の京都における謡の普及を考える際、岩井家、そしてその弟子たちの活動を辿っていくことの意味は決して少なくありません。
この度、日本伝統音楽研究センターは、岩井家後裔の岩井弘氏(本学美術学部名誉教授)より、岩井家に現存する文書や伝書類の寄贈を受けました。寄贈いただいた資料の中には、謡の指南家としての岩井、宗家との取次の家としての岩井、そして能楽の技法そのものの伝承者であった岩井、謡の理論家であった岩井など、江戸中期後期の岩井家の幅広い活動を示す資料が含まれています。
日本伝統音楽研究センタ―「京観世の記録化」プロジェクト研究会では、代表的な資料をテーマごとに分け、解題を付して展観を行います。展観を通じて、岩井氏のご好意に感謝の気持ちを表したいと思います。(大谷節子・藤田隆則)
今回の展観では、「具足資料」「弟子とのかかわり」「師家への取次」「謡本への関心」「翁の伝授」「能の歴史」「技法と理論」といったテーマにそって、資料を数点ずつまとめて展示しています。現在展示されている資料の中から、いくつかをピックアップします。
〔子年二月加藤出羽守内佃市郎右衛門より岩井七衛門宛て武具注文覚書〕
加藤出羽守の家内にあった佃市郎右衛門なる人物から、岩井七右衛門に宛てた具足注文書。十一条のひとつ書きにより、胴・けさん・金もの・小手・すねあて等々について、こと細かく要望が示されている。例えば、胴とけさん(下散、草摺の異称。腰の下に垂れて、大腿部を覆う。)に用いる糸については、黄色味を帯びた茶色の「からちや(枯茶・唐茶)」、金物には、銅と銀を三対一とする合金で、暗褐色の光沢が美しい「四分一」の指定がある。(田草川みずき)〔3-07〕
〔「翁」上演の次第〕
観世流「翁」(四日之式)の、大夫と千歳の型付を主体として、上演当日までの「翁飾り」や「別火」などの儀礼的慣習、上演当日の「翁渡り」について詳細に記す。同内容の次第書が二種綴じ合わせられているが、後の分は途中で書写が中断されている。「翁」は、謡方の家であっても舞形の伝授を受ける例があり、そのためにこうした資料が岩井家に伝わったと考えられる。(恵阪悟)[1-23]
〔謡本外題簽控〕
謡本外題簽、二十冊分、一紙。金砂子。観世流の主要な謡本書肆、山本長兵衛による元禄三年版、外組百番の刷り題簽。「新刷ノ由ニテ山本ヨリ来ル」との岩井直恒の安永4年(1784)の端書きから、見本と推察される。曲目の組み合わせは、従来の第十一巻「弓八幡」が「鵜羽」へと変更された、いわゆる後組である。岩井家の謡伝書『そなへはた』において、岩井家の謡では外組百番に元禄三年版を使用することが記されている。(丹羽幸江)[1-38]
老陽之拍子秘訣
謡曲地拍子の理論書。岩井家三代当主で直恒の父である信尹(のぶただ)の筆になる。題名の「老陽之拍子」とは〈関寺小町〉の一節「哀れなるようにて強からず強からぬは女の歌なれば」の特殊な拍子をさす。それがどのような拍子であるかは巻末で漸く解き明かされるのであるが、それに先立って展開される地拍子理論は陰陽論と易の思想をまとって衒学的でありながらも、他方大小鼓の拍の領分を明示して地拍子と大小鼓の手組の基本を明らかにする先進的な面も備えている。また2拍に3文字という特異な配分法で謡の拍律の単位を示すなど、示唆的な要素をも含んで興味深い。信尹が伝授を受けた旨奥書に見える平島元二は葛野流大鼓方。地拍子に強い関心を持っていた直恒は自身の考察を書き添え、展示の巻子のほかに同じものを二巻書き写している。(高橋葉子) [1−36]