2018年12月25日、伝統音楽普及促進事業実行委員会(委員長:河村晴久)と京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターとの共同主催によって行われた講座において、能〈羽衣〉が演じられた。その記録映像を、ここに縦書きの楽譜をつけて公開する。これまでにも能の映像は数多く存在し公開されているが、映像に添えられるのはふつう謡の文句だけである。囃子の楽譜まで含めて映像に添えることは、これまでになされなかった試みである。
囃子のそれぞれのパートには「手付」「唱歌」と呼ばれる楽譜があり、出版もされた。しかし、それらは単独のパートのみを対象にした楽譜である。全パートの楽譜が併置される総譜が出版されることはなかった。例外的に存在するのが、舞や出囃子など、能の一部分にかぎった総譜である(『八拍子』1779年、田崎延次郎『四拍子手付大成』檜大瓜堂書店, 1925年)。総譜が出版されなかった理由のひとつとして、それを必要とする人があまりいなかったことが想像できる。かつて20世紀の能楽堂において、能の鑑賞者の大部分をしめるのは、自らお稽古を積む、愛好者であった。そういった愛好者の多くにとっては、すべてのパートを見渡す総譜は、必要不可欠とは考えられなかったと思われる。
21世紀の現代にいたって、能楽堂の観客席の様子は変化しつつあると思われる。お稽古から入るのではなく、まずは舞台鑑賞から能の世界に入ろうとする人々が増えつつあるようだ。それらの人々の中には、舞台鑑賞がきっかけとなり、謡、舞、囃子の稽古をはじめるという順序を踏む人も多くおられることと想像できる。
鑑賞から入る愛好者の中には、謡の文句を知るだけでは満足できず、能の動きや音の進行の細部が気になる方々もおられよう。そうした方々に向けて、能の囃子の掛け声や音色、笛の旋律の流れを細かく辿ることができるような楽譜を提供することが必要である。能の一拍一拍は一瞬に過ぎ去っていくものだが、一拍一拍はそれぞれ多彩で、能のドラマづくりに貢献する。謡、舞、囃子の共同作業の効果を細かく感じ取るためにも、総譜は必要不可欠である。
すべての楽譜には限界がある。一拍一拍を詳細に記しても、その拍をつなぐ間(ま)のあり方を、完全に記すことはできない。能の長い伝承の中で生み出されてきた演奏様式(独特の緩急、呼吸感、気合いなど)は、楽譜からは伝わらない。しかしもし、映像と楽譜が一緒に進行していくならば、演奏の実際と楽譜の表記との「違い」が、明白に示されることになるであろう。その「違い」から、鑑賞者は、能の独自の演奏様式の面白さ、素晴らしさに気づく機会を得ることができると思う。
以上のような狙いのもとで、総譜付の映像をここに2種類、公開する。「その1」は、縦書き譜に音声波形やタイマーを添えたものである。「その2」はさらに謡の細部を示す横書き譜、舞の型や手の名称などを加えた縦書き譜をそえたものである。映像の公開に向けて、楽譜作成作業への協力を惜しまれなかった出演者の方々(河村晴久氏、有松遼一氏、森田保美氏、大倉源次郎氏、河村大氏、前川光範氏)に、心よりお礼申し上げたい。
付記:2種類の楽譜付映像うち、まず、「その1」を公開する。「その2」も、近日中に公開する予定である。
能〈羽衣〉 出演者一覧
シテ(天女):河村晴久(シテ方観世流)
ワキ(漁夫):有松遼一(ワキ方高安流)
ワキツレ(漁夫):岡充、小林努(ワキ方高安流)
地謡:観世鐵之丞(地頭)、河村和重、河村晴道、吉波壽晃、味方團、田茂井廣道、河村和貴、河村和晃(シテ方観世流)
後見:分林道治、河村浩太郎(シテ方観世流)
笛:森田保美(笛方森田流)
小鼓:大倉源次郎(小鼓方大倉流)
大鼓:河村大(大鼓方石井流)
太鼓:前川光範(太鼓方金春流)
撮影・録音・編集:エイキョービデオ
付記:映像に添えられた楽譜が完成するまでにはいくつかのプロジェクトがかかわっている。1つ目は、伝統音楽普及促進事業実行委員会(代表:河村晴久氏)、次に、能楽の国際・学際的研究拠点共同研究「能の映像にそえる記譜の研究」(2019-2020)、そして日本伝統音楽研究センターのプロジェクト「音曲技法書(伝書)の総合的研究」(2018-)である。記して感謝申し上げる。
能〈羽衣〉楽譜付(その1)
凡例
・画面の右側に縦書き譜をおく。その下に、上演時間の経過をしめすタイマーをおく。画面の下には、音声の波形をしめす。波形と楽譜との対照によって、鑑賞者は、一拍一拍の大きさの違いを正確に見ることができるはずである。
・縦書き譜は、能の音楽を構成する八拍のまとまりを、ひとつのシートに記すかたちでつくられている。時間の経過とともに、次々と八拍のまとまりのシートが進行していくように貼り付けられている。
・ひとつのシートは、能楽の謡や囃子の拍子の出発点として重要な八拍目から記載がはじめられている。そして、シートの最後は、八拍目で終わる。すなわち、最後の八拍目と、次のシートの最初は、同じ八拍目となっている。
・ひとつのシートには、右から謡、笛、小鼓、大鼓、太鼓の順に並べられている。それぞれの楽器の欄に記された記号は、それぞれの楽器の、さらにそれぞれの流派の習慣的な記譜法にしたがったものである。記載内容については、演奏者自身の意図を反映させるべく、演奏者自身の校閲をへていることをお断りしておきたい。
・謡については、シテの部分は観世流、ワキの部分は高安流の謡本の表記に、基本的にはしたがっているが、修正したところもある。なお、仮名や産み字の表記については、わかりやすいように、恣意的に変更してある。句点の記号は、能のリズムにもかかわる大切な記号でもあるので、大切なところではもれなく記載した。
・笛については、森田流の標準的な唱歌(森田流正歌)の仮名を記載しているが、演奏者の森田保美氏自身が慣習的に唱えている仮名が異なる場合、そちらへと修正を加えている。アシライ吹キ(拍子不合)の部分については、音の長さと配置、フレーズのまとまりなどを示すため、仮名と仮名との間を線でつないである。合ワセ吹キ(拍子合)の部分については、線でつなぐことはしていない。句ごとの合間にある息継ぎ(あるいはコミ)をしめすための記号(○)を、森田光春著『森田流奥義録』(能楽書林、1980年)の唱歌譜にならって、書き込んだ。
・小鼓については、粒の種類、掛け声、粒をつなぐ記号など、すべて、大倉源次郎著『大倉流大鼓小鼓手付大成第一集』(大倉会、1991年)所収の「小鼓手組初出一覧」の表記にしたがっている。
・大鼓については、粒の種類、掛け声、粒をつなぐ記号など、演奏者の河村大氏が現在使用している表記方法に、すべてしたがった。
・太鼓の打音(粒)や掛け声、打音同士をつなぐ線のかたちなどは、金春惣一(惣右衛門)著『金春流太鼓全書』(能楽書林、1953年)の表記法にしたがった。『金春流太鼓全書』には、粒の横に粒の唱えも併記されているが、繁雑さをさけるため、唱えは記さなかった。
・楽譜の製作は、フォーマットの原案を考案するところからはじまった。そのフォーマットにそって、藤田が、手書きで原案を作成した。複数のメンバーによる校正作業に並行して、成瀬はつみが、全体をワープロで清書した。清書されたものを能楽師の方々に修正していただいた。さらに複数での校正作業を重ねた。最終的な確認作業を、荒野愛子・関本彩子が担当した。楽譜を貼り付けるタイミングの測定については、藤田と成瀬が初期の作業をおこなった。その後、複数のメンバーで確認・修正をおこなった。製作にかかわっていただいた研究会のメンバーの名前を以下に列挙する。高橋葉子、丹羽幸江、長田あかね、中嶋謙昌、永原順子、玉村恭、上野正章、坂東愛子、恵阪悟。
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