京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター

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伝音リレーエッセイ

第五回「西院さんの雲隠れ」 田鍬 智志

ワンコどもの老後に備えて、大学近くに引っ越してはや3年8ヶ月になる。寝室として使っている3階の部屋の窓からは真正面に小塩山がみえる。この山の標高は642メートル。京都西山連峰の山々のなかで一番高いことが災いしてか、頂上付近には各社の電波塔が林立し、お世辞にも見栄えのする山とはいえない。

奥の山が小塩山

奥の山が小塩山

必ず窓のカーテンをしめて寝る人がいるが、私は真逆。朝目覚めたとき、締め切ったカーテンによる室内の薄暗さが大嫌いで、かならずカーテン全開にして寝る。朝、ワンコどもにたたき起こされると、雲行きを確かめるために必ず窓の外をみる。というのも、決して室内では排泄をしない、融通のきかない柴ワンコさんどもを、天候にかかわらず散歩に連れ出さなくてはならないからだ。雨はもちろん困るし、暑すぎても困るし、大雪も困る。毎朝、飛び起きるとまず窓の外に目をやり天候を確認し、そして小塩山と対面する。かくして小塩山にかかる雲の観察が日課になった。

小塩山山頂付近 石段のぼったところが淳和天皇陵(大原野西嶺上陵)

小塩山山頂付近 石段のぼったところが淳和天皇陵(大原野西嶺上陵)

小塩山の頂には淳和天皇陵(大原野西嶺上陵)がある。離宮淳和院を西院ともいい、退位後はそこに静居したことから西院帝ともよばれる天皇だ。淳和帝は、平安京遷都の天皇として誰もが知っている桓武天皇の皇子である。淳和の先々代の平城天皇、先代の嵯峨天皇もともに桓武の皇子で、三代続けて兄弟の即位が続いた。兄帝たちが、桓武の皇后藤原乙牟漏を母に持つのにたいし、淳和の生母は一夫人の藤原旅子。旅子も乙牟漏とおなじく藤原式家出身とはいえ、やはり后腹と夫人の子では格がちがう。庶子であり三男坊である淳和は、本来ならば天皇の座とは無縁の生涯を送るはずであったが、平城上皇と嵯峨天皇の争い、薬子の変で廃太子となった高岳親王(平城の第三皇子)に代わって皇太弟となる。それには込み入った事情があった。淳和の嫡子である恒世親王の皇位継承順位が、父淳和よりも、また平城・嵯峨両帝の皇子、高岳親王や正良親王よりも上位にあったからである。というのは、高岳、正良の生母がそれぞれ伊勢氏、橘氏であったのに対して、恒世王の母は高志内親王。つまり、桓武を父に持つ異母兄妹の間に生まれたサラブレッド中のサラブレッドであった。そして、将来的に恒世が天皇になるには、まず父である大伴親王(淳和)が天皇にならなくてはならない、という理由で淳和が皇位継承上位に浮上した。勿論それは権力闘争の火種をわざわざおこすようなものであるから、大伴親王は臣籍降下を申し出る。しかし留保されてしまう。そうこうしているうちに薬子の変がおきて、大伴親王は(恒世王への皇位継承を前提として)皇嗣にされてしまい、嵯峨の譲位でとうとう天皇になってしまった。

淳和帝即位により恒世親王が皇太子となったが、それも権力抗争の渦に巻き込まれることは確実。即辞退して、嵯峨上皇皇子の正良親王(のちの仁明天皇)に譲った。皇位継承者リストから外れることで淳和・恒世父子は安穏の日々が約束されるはずであった。が、恒世親王は22歳の若さで薨去してしまう。そして淳和帝の苦悩はさらに続く。

 

入道塚古墳 恒貞親王陵墓参考地(京都市右京区嵯峨大沢柳井手町)

入道塚古墳 恒貞親王陵墓参考地(京都市右京区嵯峨大沢柳井手町)

 

淳和の第二皇子である恒貞親王の母は、嵯峨上皇皇女の正子内親王(つまり淳和と正子は叔姪婚)。淳和が仁明天皇に譲位すると、恒貞親王は嵯峨上皇の叡慮により皇嗣となる。兄と同様に権力闘争に巻き込まれることを憂慮して、辞退を申し出るものの、嵯峨上皇は恒貞親王を留保し続けた。そうこうしているうちに承和七年(840)に淳和上皇が崩御する。享年55。遺体は、遺言にしたがって火葬され、骨は粉砕され、その灰は、小塩山の頂上から撒かれた。小塩山南東の麓の灰方町という地名は、灰が飛び去った方角に由来するのだとか。風にのって飛び去った稀有の天皇である。陵は存在しないはずであるが、こんにち頂上には淳和陵とされる土盛りがある。これは幕末に築かれたものだという。

淳和に続いて承和九年に嵯峨上皇が崩御すると、待ちかねていたように政変がおきて、恒貞親王は、廃皇嗣となってしまう(承和の変)。

嵯峨の弟贔屓が、かえって淳和に苦悩を強いる結果となり、継がなくて済むはずであった天皇にされてしまった。逆に淳和の皇子(たち)は、皇位継承条件も資質も揃っていたにもかかわらず若くして薨去、また権力争いではじかれて皇位を継ぐことができなかった。時代に翻弄された父子だった。

 

雲をいただく小塩山 その1(寝室の窓から)

雲をいただく小塩山 その1(寝室の窓から)

たくさんの電波塔を頂きに載せた小塩山。ワンコどもを散歩させるとき、出校するとき、かならずこの山をみる。それなりに標高のある山だから、曇天・雨天には、頂上付近が雲に隠れてしまうのは当然であるが、晴天でも頂上付近が雲に隠れることもある。小塩山を中心とする西山連峰は、北摂山地の東の端に位置し、山地全体で発生した雲(霧というべきか)が、溶岩ドームのように、西山の尾根上にこんもりと留まっていることがある。この現象は特に雨上がりによくおきる。空はすっかり晴れ上がっていても、連峰上の雲は半日ないし一日とどまり続けている。

雲をいただく小塩山 その2(寝室の窓から)

雲をいただく小塩山 その2(寝室の窓から)

しばしば雲隠れする西院さん。

雲隠れ、といえば。

日本のみならず世界にその名がしられている、あの王朝物語の主人公X。

Xの死を「雲隠」のたった二文字のみで表現したあの物語である。ひょっとするとXのモデルは西院さんなのだろうか。あるとき、小塩山の雲を眺めていて、ふとそのようなことを思った。

しかし物語の中でXは臣籍降下してM姓を賜る設定であるから、天皇がモデルというのは少々解せないところがある。モデルとなった実在人物候補としては、嵯峨天皇の子で臣籍降下した源融などがよく言われているところだ。しかし西院さんとXとには、実に共通点がおおい。列挙してみると、

■后腹の皇子でない

■幼くして生母を亡くしている ~淳和の生母藤原旅子は淳和が二歳のとき薨去~

■生涯の親友の存在 ~藤原吉野は淳和帝を生涯にわたり支え続けた。承和の変で失脚~

■兄帝の皇女を妻に迎えている ~淳和帝は兄嵯峨帝の皇女正子内親王と叔婚した。

■広大な邸宅を営んだ ~淳和帝は右京四条二坊に離宮・後院である西院を営んだ。現在の阪急西院駅付近~

■善政につとめ平安の世が維持されたこと ~淳和帝は勘解由使制度の復活、検非違使の整備、『日本後紀』『令義解』編纂など政治文化に大きな足跡をのこした。

■篤く仏教に帰依した

■50歳代半ばで亡くなっている ~淳和は享年55。Xの死は描かれていないため享年不明であるが、出家のときが52歳であるから、それから数年のうちに死去したことになるのだろう~

 

一方で、大きく異なる点がある。淳和は天皇になったがその皇子は即位できなかったのに対し、物語のなかでX自身は臣籍降下して天皇にはならなかったがXの子は天皇になったこと。つまり、この逆転こそが、物語の意図ではないだろうか。天皇にならざるを得なかった父と、天皇になるべきであったのになれなかった子。その運命を逆さまにしてさし上げたい、それが物語の作者の願いではなかったか。

かの物語のなかで、父帝がXの臣籍降下を決断したのは観相師の進言であった。観相師は、Xを観て、最高位にのぼるべき相であるが、帝王になれば国が乱れる、と予言する。温厚で聡明であったという淳和帝と、その境遇にオーバーラップする。

父が天皇でなければ子は天皇になれない。恒世親王が天皇になるために淳和は天皇になった。結果、それが権力の乱立・闘争のもとにもなった。それを回避すべく、物語では、Xが義母を孕ませ、生まれた皇子は父帝の子として成長し、やがて(Xの兄帝の次に)即位する。現実を生きた苦難の父子は物語の中で本来あるべき生き方を獲得できたのである。

作者がXの死を意図して描かなかったにせよ、後の時代にXの死の帖のみ焚かれたにせよ、Xの遺灰は山上で散骨され、などとあれば、Xのモデルが誰であるか誰もが気付いてしまうだろう。これは秘匿しておくべきことであったのだ。そう、殊更明かさなくてもよいことだ。

だから、私もXの名を明かさないでおこう。

公開:2020年06月24日 最終更新:2024年08月08日

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