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伝音リレーエッセイ

第二回「股旅ものについて、石巻にて」齋藤 桂

会場の様子。観客がお花をつけにステージに向かう。

「股旅もの」について調べている。その一環で、2019年10月27日に石巻市桃生総合センターで開かれた第21回股旅演芸東北大会を観に行った。

股旅もの。笠をかぶった孤独なやくざ者が賭場から賭場へとさすらい、手に入らないと分かっている人情にひととき触れ、それを棄て(もしくは棄てきれず)、再びさすらっていく、あるいは死ぬ。そのような物語の定型は、1920年代~1930年代に誕生・流行し、芝居、小説、映画、そして音楽が量産され、定着した。

このさすらいの感覚に、当時の満州のイメージが投影されていると指摘する人もいる(長尾直1966「流行歌のイデオロギー:股旅物流行歌論 」『立命館文學』(258), 33-81)。確かに満州の馬賊を描いた少年向けの冒険小説(たとえば池田芙蓉1925-30『馬賊の唄』等)には、大陸をさすらうイメージが、本土にはないエキゾチックなものとしてしばしば登場する。

一方、その頃の江戸川乱歩や海野十三の、同時代の東京を舞台にした小説が、大都市の奥へ奥へと迷いさまよっていく感覚を打ち出していたことを思うと、当時の想像力は「さすらい」と「さまよい」という相補的なベクトルをもっていたと言えるのかもしれない。

この股旅ものは、やくざ者を主人公に据えているために、また過度に情緒的であるとされたために、時に退廃的であると批判された。だが一方で、義理人情という作品内で理想化された任侠思想は、日本精神を示すものと評価されることもあり、両義的である。いずれにせよ大衆の人気が高かったのは確かで、加東大介1961『南の島に雪が降る』には、戦中のニューギニアで、兵士たちが股旅ものの代表作の一つである長谷川伸『関の弥太っぺ』を演じたことが書かれている。

戦後になると、股旅ものは、農村を中心に「やくざ踊り」として若者の間で流行する。股旅もののレコードをかけ、扮装をした若者がそれに合わせて踊るというものである。これもしかし、若者の集いであるゆえの荒々しさに、やくざ者のネガティヴなイメージとも相まって「敗戦踊り」「マッカーサー踊り」などと卑称されることもあった。

しかし今もなお大衆演劇や時代劇で股旅ものは定番である。音楽でも、1960年の橋幸夫「潮来笠」、あるいは最近では氷川きよしの2000年のデビュー曲「箱根八里の半次郎」のヒット等、浮き沈みはあるものの、なお一つの類型として根付いている。

さて、股旅演芸大会である。会場は桃生総合センターという、運動場と体育館兼ホール等の施設が集まった場所で、小高い丘にある。午前中はコンテスト形式、午後からはプロによるエキシビションとなっていて、その間に審査が行われる。富士山の絵を背景に、股旅ものの演歌に合わせて、歌詞を表現した振付で踊られる。

歌詞にしてもそうだが、断片的な一場面のみを取り上げて舞踊化しても成立するほどに、股旅ものの物語が、ある種古典として演者と観客の間で共有されている。司会者が「昭和の時代の演芸大会を思い出して頂いて……」と言っていたから、直接の出典は戦後の「やくざ踊り」にあるのだろう。しかし今では家元制も成立していて、このようにコンテストが行われている。

面白いのは、コンテストでありながら、演じている最中に観客が「お花をつける」、つまりご祝儀をステージに置いていくことで、「邪魔にならないように舞台の端に置くように」とのアナウンスもされる。審査とは別に、その数によって人気をはかることができる。

昼の休憩で外に出ると、食べ物を売る屋台に混じって、衣装を売る店が出ている。股旅ものの衣装はもちろんだが、よくセットで踊られるマドロスもの(船員の格好をして舞う)の帽子やジャケットもある。コンテストに出ている出場者は、芸を磨くというところに主眼があるのだろうが、このような衣装を着て舞台に立ちたいというシンプルな動機も、この芸能を支えているようだと気付く。衣装店が主催する舞踊大会のDVDも並んでいる。

小麦粉をのばした「はっと」を入れた汁物を売る屋台で、京都から来たと言うと「出演者? え? 観るためだけに来たの? 私、親戚が山科にいるのよ」等と言いながら大盛にしてくれた。

当日の観客は、ざっと見たところ500人くらいかと思っていたが、新聞によれば約700人(『河北新報』2019年10月31日)で、この芸能がいかに支持されているかが分かる数字だろう。ストーヴを入れても寒い10月末の石巻の、体育館のような会場で、観客は熱心に舞台に集中している。お稽古事の発表会でよくあるように、知り合いの出番が終わったらさっと帰ってしまう、というような観客はほとんどいないようだ。午後のエキシビションが終わり、優勝者が発表されて、大会は終了した。

翌日の帰り際、列車の時間まで石巻の街を散策していると、サルコヤという名前の楽器店が目に入った。中に入ると各地の民族楽器が飾られている。窓際にグランドピアノが置いてあり、見ていると店主がやってきて、説明をしてくれた。津波で海水につかったピアノを再生したもので、既に何台かは完了して実際に使われているとのこと。取材も多く受けていて、壁にはシンディ・ローパーがやってきた時の写真が貼ってあったので、浅学ゆえ知らなかったが、有名なお店のようだ。通常の商品にまじって、乾いた後の楽譜を安売りしている一画もある。

店主は「水につかった楽器を見たとき、腹が立った」と言っていた。「悲しい」でも「苦しい」でもなく。震災時関西に暮らしており、今回この街に数日滞在しただけの私には、この穏やかな表情の店主が語った「腹が立つ」という感情を理解できていないだろう。しかしその感情が、このピアノをここにあらしめている。

後にニュースで、その店主が2月に91歳で亡くなり、3月末でサルコヤが閉店したことを知った。

サルコヤのピアノ

股旅ものが流行していた1933年にも東北地方で大地震と津波がおこっている。その前後には不況と凶作があり、続いて戦争がある。どの時代、どの土地でも同じことだが、部外者にはそれらは連なる情報の点であり、しかし実際には経験の線として生きた人々がいる。

その線とは別に、だが並行して、受け継がれる物語がある。時に現実とまごうほどのリアリティで、時に願望が投影された空想で、あるいは祈りや期待で、人々の経験と共振し、場所やかたちを変えながら並走する。長く親しまれてきた股旅ものも、再生したピアノも、おそらくはその共振の音を伝えているのだ。

公開:2020年06月03日 最終更新:2024年08月08日

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