伝音アーカイブズ

源氏物語の音楽
─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─


『源氏物語』には、実に多くの場面で雅楽の演奏シーンが描かれています。人物の心情を暗示するという重要な目的のために、雅楽の曲名をストーリーに盛り込んでいるのは明らかです。ところが、こんにちの雅楽は、個々の曲の個性が希薄で画一的な音楽となってしまっています。
現代の我々は、その当時の雅楽1曲1曲がどのような調べだったのか知りません。その意味で、当時の人々と同じ楽しみ方、味わい方でもってこの物語を読むことはできません。
そこで今回は、『源氏物語』の名場面に盛り込まれている雅楽曲を、“平安末期・鎌倉期”の古い楽譜から再現してみたいと思います(厳密にいえば、紫式部の生きた時代、“平安中期”の雅楽ではないことをご了解ください)。

2013年度は『源氏物語』に描かれる音楽をテーマとして、レクチャーコンサートを以下の日程で催しました。

  • A) 9月19日 宇治市源氏物語ミュージアム平成25年度連続講座「美と心、そして歌─日本文化のなかの源氏物語─」第五回「源氏物語の音楽」、同館講座室。
  • B) 10月13日 京都市立芸術大学音楽学部オープンスクール日本伝統音楽特別講座「源氏物語の音楽─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?Ⅱ ─」、京都市立芸術大学講堂。
  • C) 12月13日 モスクワ音楽院世界音楽文化センター第15回日本の心音楽祭(XV Музыкальный фестиваль "ДУША ЯПОНИИ")、「宮廷音楽 雅楽─歴史・理論・実践─(Придворная музыка гагаку: история, теория, практика)」より朗読付きコンサート「平安時代の恋愛と音楽─紫式部の『源氏物語』から─ (Любовь и музыка в эпоху Хэйан: по роману Мурасаки Сикибу «Повесть о Гэндзи»)」、モスクワ音楽院会議ホール。

以上3講演のプログラム構成・曲目・楽器編成・演奏者は、それぞれ若干異なります。本稿では、これら3講演の内容を統括し、演奏の模様を抜粋で掲載します。

追記:以下のページに他の曲の動画を掲載しております、合わせてご覧ください。

Ⅰ 現行の音楽様式と平安・鎌倉時代の雅楽楽譜史料研究 ─高麗楽〈胡蝶楽急〉の場合─

蝶の羽をつけた童の舞として、こんにちでもよく知られている〈胡蝶楽〉は、朝鮮半島系の高麗楽(コマガク)に属する舞曲ですが、実は日本人の作曲になる和製高麗楽です。宇多法皇が延喜六年(906)に童相撲(ワラワズモウ)御覧の楽舞として作ったとも、藤原忠房(?〜928)が前栽合(センザイアワセ)の楽として作曲したともいわれています。 ところで、遣唐使廃止(894)以前に中国大陸や朝鮮半島から日本にもたらされた雅楽は、大陸の燕楽(宮廷の宴会用音楽)だったといわれます。それが日本風にアレンジが加えられ、そして10世紀には、ほぼ今わたしたちが知っているような音楽へと変貌し、その後ほとんどスタイルを変えずこんにちまで伝承されてきた、と一般にいわれています。したがって、〈胡蝶楽〉が10世紀の作曲であることは、「私たちが耳にしている〈胡蝶楽〉=作曲された当時そのままの〈胡蝶楽〉」、ということになりましょうか。しかし、この曲、蝶々らしい華麗さや愛らしさを表現した曲といえるでしょうか?高麗楽の他の曲と似たり寄ったりです。 まずは、こんにちに伝わる〈胡蝶楽急〉をお聴きください。なお、こんにちの高麗楽の演奏では管楽器と打楽器のみで演奏されることが殆どですが、今回は絃楽器も加えてみました(註1)。

すでにご存じのように、音楽学者ローレンス・ピッケン(Laurence Picken,1909〜2007)が、1950年代後半頃に、「大陸より舶来した当時の雅楽は、大陸的・歌謡的なメロディーであり、その後徐々に何倍も、曲によっては十数倍も“まのび”した」との学説をはじめて提唱しました。日本にもたらされた雅楽は、その後の長い長い伝承の末、人間的喜怒哀楽を超越した高い精神性を獲得したといえます。しかし反面、曲それぞれの個性というものが失われてしまいました。 では、平安時代における〈胡蝶楽〉はどのような調べだったのでしょうか。それは後ほどお話いたします。この稿では、『源氏物語』のストーリーの流れにそって、名場面において演奏されている雅楽曲をいくつか取り上げます。まずは『源氏物語』を代表する曲〈青海波〉から。

Ⅱ 「紅葉賀」より〈青海波〉

まず第1曲目に物語第七帖「紅葉賀」にえがかれる〈青海波〉を演奏します。光源氏といえば青海波、というほど、彼を象徴する曲名となっています。この場面の重要なキャラクターは、18歳の光源氏、父親の桐壷帝、そして桐壷帝の夫人の藤壺です。このとき藤壺は23歳で、光源氏とは義理の母子になります。
時節は10月10日すぎのこと、桐壷帝は、朱雀院に出かけて、舞楽などを鑑賞する予定でした。妊娠中の藤壺は同行できないので、桐壷帝は、そんな彼女を楽しませようと、行幸舞楽の試楽(リハーサル)を宮殿内で催し、彼女に見せました。光源氏は、従兄弟で親友の頭中将とともに、帝と藤壺のまえで青海波を舞います。その舞姿は夕日に映えて世にまたとない素晴らしさで、舞の途中に源氏が歌う声は、仏の世界に住む鳥、迦陵頻伽の鳴き声のようです。桐壷帝をはじめ皆が感動して涙を流します。そのような華やか雰囲気のなか、なぜか光源氏と藤壺の心は重く沈んでいます。それもそのはず。藤壺の腹の中にいる子の父親は、実は桐壺帝ではなく、源氏なのです。源氏は、生涯このあやまちを隠し通しました。物語の作者、紫式部は、その波乱の展開の幕開けを告げる曲として、青海波を選びました。
舞楽青海波の舞では、途中に舞人自身が舞台上で「詠・唱歌」という短いメロディーを歌います(現在の伝承では歌いません)。今回の演奏では奈良の春日大社が所蔵する『輪臺詠唱歌外楽記』という13世紀頃の楽譜にもとづいて演奏いたします。「詠・唱歌」を挿入する箇所ですが、狛近真『教訓抄』(天福元年1233)には古様と(当時の)現行様の2様記されています。

古:初度の詠→楽二返→詠→楽二返→詠→楽三返
今:初度の詠→楽四返→詠→楽一返→詠→楽三返

今回は、時間の都合上簡略し、初め楽二返を奏したのち詠唱歌をまとめて三度続けて唱え、そのあと楽二返を奏して終えました。
では〈青海波〉をお聴きください(註2)

青海波「詠 唱歌」の歌詞(本講演で採用したもの)
桂阿殿迎初ウ(歳)。 来々已 来々已。
社阿藘義早(阿) 貞観年。チヤタリタンナ。
蝶阿醼書梁邊。チヤタリタンナ。


Ⅲ 「明石」より催馬楽〈伊勢海〉

催馬楽とは、平安時代に隆盛した歌謡で、各地の民謡・風俗歌、あるいは唐楽や高麗楽の旋律に歌詞をつけて歌ったものです。遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われたため、歌詞の内容も祝賀的なもの、歳時的なものから俗世間的内容までさまざまです。その起源はさだかではありませんが、9世紀前半にはジャンルとして成立していたといわれています(7世紀説もあり定かではありません)。平安時代に隆盛を極めた催馬楽ですが、その後徐々に衰退し廃絶します。現在に伝わる催馬楽はのちに再興されたもので、その先駆けとなった〈伊勢海〉は、寛永3年(1626)三代将軍家光の代、後水尾天皇二条城行幸にあわせて復興されました。
朱雀帝の寵姫、朧月夜との密通が明るみになってしまい、自ら官職を辞して、流謫の道を選んだ源氏。まず須磨へ、そして明石の入道の舟に乗り明石へと向かい、浜辺に建つ入道の邸宅に招かれます。明石の入道と源氏は、箏と琵琶をとっかえひっかえ気ままに掻き鳴らしながら、身の上話に涙します。芸談に話がはずむなかで二人はおたがいに思惑を仄めかしあいます(傷心を癒してくれるてごろな女性を求める源氏/娘を高貴な男性のもとに嫁がせたいと願う明石入道)。そして催馬楽〈伊勢海〉を入道は箏を弾き、源氏は拍子をとりながら歌います。

源氏物語「明石」より
(源氏は)箏の琴、(琵琶と)とりかへて、(明石入道に)賜はせたり。げに、(入道は)いとすぐして掻い弾きたり。今の世に聞えぬすぢ、弾きつけて、手づかひ、いといたう唐めき、ゆの音ふかう澄ましたり。伊勢の海ならねど、「清き渚に貝や拾はむ」など、聲よき人に謡はせて、我(=源氏)も、時々、拍子とりて、聲うちそへ給ふを、(入道は)琴弾きさしつゝ、めできこゆ。

〈伊勢海〉の歌詞は、「伊勢の海岸で潮が干いている間に、ナノリソ(名告藻、ホンダワラ)を摘んで、貝や玉の石を拾おうよ」といった内容です。潮干狩りや石拾いなどして戯れる光景をうたっています。ところが、一説に、この歌詞にはウラの意味があって、貝や玉とは、女性・男性の暗示だといいます(木村紀子訳注『催馬楽』東洋文庫)。つまり、男女のナンパの風景をうたっているわけです。“清き渚に貝や拾はむ”のとおり、源氏は入道の娘の明石君をみそめ、やがて姫君(のちの明石の中宮)が誕生します。
さて、そのような海辺の楽しい光景/恋のかけひきをうたった〈伊勢海〉はどのような調べでしょうか。
今回の演奏は、平安後期~鎌倉時代の催馬楽歌譜『西方楽』(神奈川県立金沢文庫保管)から、歌の旋律をおこしました。この史料は、往生講(管絃講)という法要用に編纂されたもので、収載曲譜すべて浄土教的内容の替え歌で記されています(註3)。が、今回は、原詞のみを歌ってみます。

歌詞:伊勢の海の 清き渚に潮間(シオガイ)に 名告藻や摘まむ 貝や拾わむや 玉や拾わむや


Ⅳ 「胡蝶」より〈胡蝶楽〉破・急

物語第二十四帖の名である「胡蝶」は、この曲名からとられています。この帖の序盤では、春の御殿(光源氏の六条院邸宅内)での船上音楽会に続いて秋好中宮(アキコノムチュウグウ、冷泉帝の后)の秋の御殿での法会と、華やかな場面が連続して設定され、にぎやかな音楽・舞の描写が続きます。そのしめくくりとして秋好中宮御殿での法要で童べたちによる胡蝶楽が舞われます。ここでえ繰り広げられるのが、紫の上と秋好中宮のいわゆる春秋対決。お互い相手の御殿での催しに顔を出さない二人。胡蝶を題にもりこんだ和歌にそれとなく皮肉をこめながらも、その交し合いを楽しんでいます。そんな両者の御殿をいったりきたり、文の使いをしているのが、若き夕霧です。つまり彼は、二輪の花の間を飛び交う蝶というわけです。
今回は、破の楽章、急の楽章を続けて演奏してみます。さきほど聴いていただいた、現行の〈胡蝶楽〉急の調べと、どちらがより「胡蝶」のにぎやかな場面にふさわしいでしょうか。破二返に続けて急三返を演奏します(註4)。

Ⅴ 「御法」より〈羅陵王〉荒序八帖・入破

〈蘭陵王〉とも〈陵王〉とも表記されます。北斉の高長恭はわずか500騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将でしたが、美しい声と優れた美貌であったため、兵達が見惚れて士気が上がりません。そこで獰猛な仮面をつけて出陣したところ勝利し、兵士たちは歌をつくってその武勇を讃えました。また別の説もあります。シナ国では、隣国の王と天子の座を争っているさなかに、王が崩御してしまいます。息子の新王が亡き父王の墓前で嘆き、絶望にくれていると、竜顔鬚髯の父王が墓から現れ、そして共に戦地に赴きました。しかし戦況は劣勢、加えて日没が追い打ちをかけます。すると父王は、神魂を飛ばして沈む日をまねきよせ、日を南中の位置に戻しました。それにより戦いに勝利し、世の人はそれを讃えて楽舞にしたといいます。この別説から別名〈没日還午楽〉とも呼ばれます。日本には林邑(ベトナム)僧、仏哲がもたらしたとされています。
その由来のとおり、優美ながら勇壮さも兼ね備えた秀曲です。現行の陵王も“まのび”しているとはいえ、その面影をよく遺しており、こんにちでも雅楽の名曲の一つに数えられます。古今通じてたいへん演奏頻度の高い曲です。 この曲は、乱序・囀・嗔序・荒序・入破・新楽乱声(または小乱声)の楽章からなりますが(鎌倉時代の楽曲構成)、うち、嗔序・荒序は現行にはなく、また最後(舞人が退場する際)に奏される乱声はこんにちでは安摩乱声を奏します。この曲の乱序には、日掻返手とよばれる舞の所作があったといいます(今回、乱序は演奏しておりません)。荒序は、楽・舞ともに秘曲とされ、特定の楽家のみが伝承・演奏することができました。秘曲荒序にまつわる説話もたくさん残されています。
源氏物語の「御法」では、病床の紫の上が自ら発願し、三月十日に二条東院で修された法華経千部供養法会のなかで、この曲が演じられる場面があります。親王たちや上達部の人々も演奏に加わり、たいへん賑やかな場面ですが、病の紫の上だけは、今生の聞き納め・見納めと、しんみりした気持ちで見渡すのでした。そして5ヶ月後の8月14日、明石の中宮に看取られて亡くなります。物語のヒロイン、理想的な女性として語られる紫の上の有終の美を飾るにふさわしい曲といえます。

源氏物語「御法」より
ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、(中略)百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、物のあはれも、おもしろさも、残らぬほどに、陵王の舞ひて、急になる程の、末つかたの樂、はなやかに、にぎはゝしく聞ゆるに、(中略)親王達・上達部の中にも、物の上手ども、手のこさず遊び給ふ。上・下、心地よげに、興ある気色どもなるを、(紫の上が)見給ふにも、「(命の)のこり少なし(中略)年頃、かゝる、物の折ごとに、まゐり集ひ遊び給ふ人々の、御かたち・有様の、おのがじし、才ども、琴・笛の音をも、今日や、見聞き給ふべきとぢめなるらむ」とのみ、(紫の上は)おぼさるれば、(常は)さして、目とまるまじき、人の顔どもも、あはれに見え渡され給ふ。

〈没日還午楽〉の由来譚から、紫の上の延命を願って、この曲が演奏されたのでしょう。この〈陵王〉の場面の時刻設定は、夜明け方ですが、どこか西の空が黄金に輝く夕刻といった印象をうけます。
なお、「陵王の舞ひて、急になる程の、末つかたの樂」とありますが、この曲に急の楽章はありません。この舞を好んだ高野天皇(=孝謙天皇、在位749~758)の時代には、舞人の入る時(退場時)に沙陀調調子を奏していたようです。しかしそれを物足りなく感じた高野天皇は「(沙陀調)調子を止(や)め、安摩(乱声)の急吹きを以って、入る曲となして、かなづべし」との宣旨を発しました。舞の名人の尾張浜主(733~846以降?)はそれをうけて、以後、安摩乱声の急吹きを奏したといいます(『教訓抄』巻第一)。「急になる程の」とは、安摩乱声の急吹きのことでしょうか(安摩乱声は演奏いたしません。ご了承ください。)。
今回は、こんにち伝承されていない荒序をまず演奏し、そして入破を演奏しました。荒序の再現にあたっては、「龍笛荒序曲」という三管の楽譜と、箏『仁智要録』琵琶『三五要録』とを用いています。「龍笛荒序曲」と『仁智』『三五』所収の荒序譜とは、若干旋律が異なっており、ところどころ合わない箇所があります。今回は、合わない箇所は削除し、合う箇所のみを演奏する措置をとりました。また全八帖のうちの第三帖は、第一帖と同一のため省略しました。



この曲は、もとは沙陀調(D・e・f#・g#・a・b・c#)の曲とされていますが、恐らく平安時代からすでに、沙陀調と壱越調(D・e・f#・g・a・b・c)の2つの音階(混在)で演奏されるようになっていたと考えられます。本日の演奏に用いる古楽譜を例にあげると、三五要録・仁智要録が沙陀調で、管楽器譜の古譜呂巻・註大家龍笛要録譜などが壱越調で書かれています。したがって、合奏した場合、絃楽器と管楽器では半音ずれる箇所があります。もちろん現行の雅楽は、音組織がさらに複雑化しているので、そのような調性感は希薄になってしまっています。沙陀調曲・壱越調曲に限らず、どの調どの曲を聴いても画一的な印象を受けるのはそのためです。

Ⅵ 演奏に用いた古楽譜について

『源氏物語』の成立は、西暦1000年前後といわれています。この頃に編纂された楽譜は、あまり残っていません。今回の演奏会では、主に12世紀以降に編纂された楽譜を使っています。したがって、正確には平安中期の雅楽の再現とはいえません。その点ご了解願います。
今回演奏に用いた楽譜のなかで、最も古い楽譜は、源博雅(918〜980)が編纂した龍笛譜『博雅笛譜』です。966年に村上天皇の命で編纂されました。現在写本として残っているのはごく一部分です。今回の演奏では、〈青海波〉で使用しています。これ以外は、全て平安末期以降の楽譜を用いました。
11世紀以降になると、旋律を修飾する技法が発達し、楽譜にその変化がみられます。それは個人の芸であり、ひいては家の芸となり、やがて中世を通じて様式化していったと私は考えています。14世紀初めころの石清水属楽家、大神氏の龍笛譜『基政笛譜』『懐中譜』『註大家龍笛要録譜』などと、興福寺属楽家の龍笛譜『管眼集』と比較すると、装飾の付け方や、譜字の書法にかなり相違が認められます。大神のほうがより華麗な装飾技法を好んだようで、龍笛譜『註大家龍笛要録譜』では、装飾音で埋め尽くされています。今回の〈陵王入破〉の龍笛パートはこの楽譜を用いています。これを吹きこなすには、かなり骨が折れます。
藤原師長の箏譜『仁智要録』・琵琶譜『三五要録』をみると、他者の楽譜との異同が書き込まれています。龍笛の楽譜ほどではありませんが、多少個人によって節回しの相違があったことが看取されます。

  • 一覧(曲名略号:ⅰ青海波、ⅱ伊勢海、ⅲ胡蝶楽、ⅳ陵王荒序、ⅴ 陵王入破)
  • 箏譜『仁智要録』: 藤原師長(1138〜1192)撰(ⅰⅱⅲⅳⅴ)。 
  • 琵琶譜『三五要録』:藤原師長撰(ⅰⅱⅲⅳⅴ)。
  • 龍笛譜『博雅笛譜』:源博雅(918~980)、康保三年(966)撰(ⅰ)。
  • 龍笛譜『基政笛譜』: 山井基政(大神基政 1079〜1138)撰(ⅲ)。
  • 龍笛譜『註大家龍笛要録譜』:大神景光(1273~1354)撰(ⅴ)。
  • 催馬楽歌譜・龍笛譜『西方楽』:鎌倉時代、堯観撰(ⅱ)。
  • 笙譜『古譜呂巻・律巻』: 豊原利秋(1155〜1212)撰(ⅰⅴ)。
  • 篳篥譜『芦声抄』: 中原茂政(1274〜1346?)撰(ⅲⅴ)。
  • 龍笛・笙・篳篥総譜「龍笛荒序曲」(『羅陵王舞譜』所収):狛近真(1177〜1242)撰か(ⅳ)。
  • 打物譜「打物案譜法」(『教訓抄』巻第十所収):狛近真、天福元年(1233)撰述(ⅳⅴ)。
  • *その他同系諸本も参照した。

Ⅶ スタッフ

演奏者 ナタリヤ・グルビンスカヤ
Наталья Фёдоровна Клобукова[Голубинская]、モスクワ音楽院世界音楽文化センター主席研究員)
古野雄真(関西学院大学大学院文学研究科在学)
荒木真歩(京都市立芸術大学音楽学部在学)
田村菜々子(同大学院音楽研究科在学、西本願寺仏教儀礼研究室研究助手)
増田真結(同大学院在学、同学部非常勤講師、神戸女学院大学非常勤講師)
上野正章(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター非常勤講師)
齊藤 尚(同センター図書室非常勤嘱託員)
田鍬智志(同センター准教授)
三島暁子(同センター非常勤講師)
ほか
司会 (於本学オープンスクール講座)
藤田隆則(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター教授)
朗読 (於モスクワ音楽院日本の心音楽祭)
ナタリヤ・グルビンスカヤ
ウェブ構築

東 正子(同センター非常勤講師)

立案・訳譜・構成 田鍬智志
所属は2014年2月現在

本稿は、2013年度共同研究「雅楽(舞楽)および関連芸能のいまとむかし」の成果の一部です。
本稿の映像掲載にあたり、主催された宇治市源氏物語ミュージアム各位ならびにモスクワ音楽院世界音楽文化センター各位のご承諾とご賛同を賜りました。記して御礼申し上げます。


註1 
拍子二より、琵琶・箏同時に付けています。また終わりは、吹き止め句は付けず、吹き(弾き)流しています。古楽譜解釈演奏との比較のためです。なお、今回とりあげた古譜再現演奏における各楽器の付け所は、恣意的なもので文献的根拠には基づいていません。
註2
〈青海波〉〈伊勢海〉において、箏奏者は生爪の替りにギター用のフィンガーピックをはめて演奏しています。
註3
『西方楽』替歌: 瑠璃の地の 木立めでたや 宝のや 池の浜ごとに  玉や拾わむや 玉や拾わむや
註4
〈胡蝶楽〉の箏においては、奏者の希望により生田流の爪をはめて演奏しています。


最終更新日2014/12/12 | 公開日:2014/2/6
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