9 囃子の変遷と意味付け
囃子の変遷
囃子方の囃子に対する姿勢が、以前とはかわってきているという。今の人は、「どのようにしたら囃子の流れができますか」といったことを先輩にきくことがないので、囃子の高度の習得についていけなくなることがある。「しんどくても、ともかくがんばっていれば、どこかで花がさくのだが」という思いが、指導者達にはある。
意味付け
後祭りの町内では、祭り自体をたのしむことを信条にしている。一方、後祭りの人々からみれば、前祭りの人々は、競争心が強いようにおもえるという。お祭りおよび囃子の楽しみは戻りにある。行きしはきっちりとやる囃子であり、神聖すぎてたのしめない。特に、行きしの途中から戻りにはいるが、その橋渡しとなる「八番のうち返シ」への掛け声「ハアー」からの入り方がものすごく良く、わくわくするという。
囃子方には、囃子には新しい要素は少しずついれるが、古いものをそのままやっているわけであり、少しずつの変化が大事であるという考え方がある。町内の考え方も、それと共通している。北観音山の場合、町内の役職者と囃子方のそれとがかさなっているので、やりやすいという。 小西潤子は、囃子方の囃子に対する思いを如実にしめす、次のような事例を報告している。
「…親父もわたしも息子も、お囃子が大好きで…三人で鉾の上にのるのが夢だった…。それが親父も亡くなり、息子も16歳で夭折して…。 親父の葬式のとき、焼香が終わった後、囃子方のメンバーが浴衣に着替えてきて、葬送行進曲の代わりに[、]親父の好きだった〈お福〉を演奏してくれたのだ。どうも、親父は前から頼んでいたようだが、わたしはちっとも知らなかったので、びっくりした。あれは、ちょうど祭りが終わった8月のことだったから…」(1989年当時57歳男性による)〔小西 1989:59〕