2 担い手
囃子をはやす者を囃子方といい、北観音山の保存団体である財団法人北観音山保存会囃子方として、町の直轄となっている。2005年現在の在籍数は、45名(実際に参加しているのは38名)で、その内訳は囃子方代表 1、顧問 2、幹事 4、太鼓方 8、太鼓方見習い 3、笛方 11、笛方見習い 4、鉦方 11、鉦方見習い 1である。これらは、町会所の二階に「囃子方連名」として、木札によって掲示される。囃子方の幹事(囃子方代表・笛責任者・太鼓責任者)は基本的には町内在住者であり、囃子の指導をおこなう。囃子方は北囃会という親睦の会をもっていて、懇親会やゴルフなどを一緒にして、親睦をはかっている。
囃子方は本来、町内在住の各家からでることが義務づけられており、それが不可能な場合は、「不勤料」をおさめる取り決めとなっていた。場合によっては、不勤料のかわりに、住み込みの使用人や出入りの人をだすこともあった。しかしながら、町内在住者がへってきたことから、1930年に囃子保存会が結成され、それ以後以下に記すような条件で、加入をすすめてきた。また、前述のように、1954年頃まで笛方には鶏鉾の囃子方がきていた関係で、笛方と太鼓方は別であるという意識が非常に強かった。たとえば、笛方だけの親睦の会(亀甲会)があったり(1970年代後半まで)、足洗い(慰労会、後述)は両者別々でおこなわれていた(1980年代の終わり頃まで)のは、そうしたことの名残りである。やがて、いつまでもそれではまずいのではないかということであらためられ、現在の平等な形にいたっている。
囃子方に新規にはいることの希望があった場合、まず保存会の幹事会から、「こういう子供がはいりたいといっているのだが」という打診が、囃子方の側にある。囃子方の責任者が、以下にしめす諸条件を最終的に判断して、幹事会につたえる。
入会の条件は、まず小学3年生(8歳)以上で、町内の者ないしは囃子方の紹介者があることが重要である(町内の者の親戚や取り引き先の子弟の場合もある)。長続きできる人であることが大事であり(最低10年)、すぐにやめるようではこまるので、この点は特に確認する。また、祭礼が長くつづき体力・気力的にも大変なので、体が丈夫なこと、塾や試験などを理由にあまりやすまずにきてくれることも大切である。責任をもってできるかが何よりも重要であるという。以上のようなことを確認した後、囃子方への申込書をかいてもらい、登録名簿に記載する。
7月1日の稽古始め(ないしは月稽古の初回)に、新入りのお披露目をおこなう。新入りの保護者は、観音様へのお供えを町内にだし、また囃子方にお披露目の品物をくばる。品物はお菓子が多いが、風鈴・シャープペンシルなどをくばる人もいる。その後新入りは、鉦方見習いとして、鉦の習得にはげむことになる(「8.伝承過程」参照)。
囃子方においては、平成になってから、今までの年功序列から能力主義に転換した。はいってからの3年間、月稽古(「4.囃子の機会」を参照)・二階囃子稽古・祭礼時が評価の対象となる。その基準は、1)入会年数、2)出席率、3)やる気、4)技術である。3年程たって、上記の基準をみたせば、囃子方責任者の判断によって、鉦方から太鼓方見習いや笛方見習い(さらに太鼓方および笛方)に移行する。最近は、笛方は演奏が大変なのでなり手がなかなかいなくて、太鼓方がだぶつき気味である。鉦方・太鼓方・笛方の別とそれぞれの中での順位は、町会所にかかっている木札でしめされている。
〔写真1〕囃子方の木札
月稽古・二階囃子稽古共に3回以上出席しないと、鉾にはのせてもらえない。月稽古の時でも、町会所にかかっている順位をしめす木札は、順番が頻繁に入れかわる。転勤などの仕事の都合で、休会することもある。また、もどってきて再開することもできる。
衣裳のうち浴衣は、隔年で新調する(保存会持ち)。帯は正絹の博多帯で、六角および楊柳観音像の図像がおりこまれている(個人持ち)。また、草履は個人持ちである。
〔写真2〕囃子方の衣裳
なお、六角町には「囃子方勘定書」(天保4年)、「囃方勘定帳」、「六角町囃方勘定帳」(文久3年〜明治11年)といった文書が伝承されている。また故奥村英太良氏が、大正2年8月から「囃子方帳」をつけており、これは現在囃子方代表の奥村久嗣氏にひきつがれている(囃子方の氏名・年数・稽古日等が記載されている)。祇園祭りにおいて、囃子方に関する系統的な資料は少なく、いずれも貴重なものとなっている。