京都市立芸術大学

日本伝統音楽研究センター
所報

第1号 2001年3月

来日からの20年を振り返って

スティーヴン・G・ネルソン

 2000年4月に、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターへ赴任したが、オーストラリアで生まれ育った私が初めて来日したのは、1980年4月であった。奇しくも満20年目の、まさに同じ月であった。2度目の成人式を迎えたような、全く不思議な偶然と思わざるを得なかった。世間から見れば、外国籍の私が「日本伝統音楽研究センター」なる場所に所属していること自体、不思議に思われるかもしれない。そこで、今までの自分の歴史を簡単に紹介し、赴任の弁と替えさせて頂くことにしたい。

 大学院生として来日したが、学部生時代はシドニー大学の音楽学科で音楽学の勉強をした。2年生の「西洋音楽史」と「和声・対位法」の担当教官(ケンブリッジ大学出身のDr. Nicholas Routley)から多大な影響を受け、卒論ではシェーンベルクの初期の歌曲と表現主義との関連性について音楽史・音楽分析の観点から論じたりもしたが、同じ4年生の時から、日本の雅楽の古楽譜『博雅笛譜』についてケンブリッジ大学で博士論文をまとめ、30歳前後という若さでシドニー大学へ赴任してきた Dr. Allan Marett から指導を受けるようになった。

 以前から雅楽の不思議な音の世界に強い魅力を感じていた私は、中国語の古典(つまり「漢文」)の勉強を少ししていたこともあって、それほど迷わずにマレット氏のもとで雅楽の研究を始めた。そして留学を考えた時、祖父母の代で捨ててきたヨーロッパへ今更戻るよりは、と、マレット氏の強い後押しもあったため、日本政府、文部省の外来研究留学生のための奨学金に応募した。日本語が全く不自由であったにもかかわらず受かったのは幸運であった。

 当初は、東京芸術大学に研究生として籍を置きながら文献資料の調査を行い、雅楽の楽器、特に篳篥の実技を学び、2・3年で帰国しようと思っていた。しかし、そうはいかなかった。指導教官となった故小泉文夫先生に勧められて修士課程に入学することになった。小泉先生は「雅楽は私の専門ではないから、まず上野学園の福島和夫先生のところに行きなさい、平野健次先生の授業を取りなさい、民俗音楽ゼミの単位をあげるから小野雅楽会でもっと実技をしなさい」などと、今から考えれば指導教官として完璧なアドバイスを下さった。

 言うまでもなく大学の授業や演習は、ついていくのが大変であったが、横道萬里雄先生の日本音楽史の講義、蒲生美津子先生のゼミなどで色々な発見があり、特に蒲生先生には修論のテーマ(『五絃譜』の解読)を与えられたようなものであった。また、日本語がままならぬ自分にとって誠に有難いことに、留学生のための楽書講読を設けて頂いたが、私と故リン・ワカバヤシさんが、『糸竹初心集』の変体仮名と戦った。その時根気よく教えてくださった高橋美都氏が、今では同僚となったのが何とも嬉しいことである。

 こういった出会いが貴重であったのは言うまでもないが、今の私を形作ったのは上野学園日本音楽資料室の福島和夫先生との出会いであった。マレット氏もお世話になったことがあり、私がその教え子ということでとても暖かく受け入れて頂いた。83年からは非常勤の研究員をするようになり、短い間に日本音楽関係のさまざまな文献資料に、第1人者の指導のもとで接することができた。また声明の新井弘順氏というよき先輩研究員との交流も生まれ、平安・鎌倉時代の音楽史を理解するには声明に対する理解も不可欠であるという意識を持つようになった。

 85年には、東京芸術大学の博士課程に入学した。テーマは雅楽と声明が絡み、しかも歴史的に最も興味深い平安院政期の音楽に関わるように、「『順次往生講式』の伎楽歌詠」を選んだ。唐楽の旋律に極楽浄土関係の詞章をつけて歌う「極楽声歌」、催馬楽の詞章を替え歌ふうに読み替えて歌う「西方楽」、講式というものの成立背景、などなど、今から思えば当時の自分にはいささか手に余るテーマであった。博士論文は結局まとまらず、満期退学することになったが、今でも同じテーマで研究を続けていることも事実である。

 89年からの慶應義塾大学文学部の音楽学の非常勤講師をはじめ、その後明治学院大学文学部の芸術学科、国際基督教大学教養学部などで日本音楽の概説、日本・東洋音楽史の講義を担当するようになった。そのほとんどは研究センターに赴任するまで続いたが、その間、学生の学力低下、日本音楽に対する拒絶反応を感じながら、音楽専攻でない学生に、いかに日本の音楽に興味を持たせるかについて苦心してきた。慶応では国文・国史専攻の学生が音楽説話などに興味を持って、それが音楽史への関心に繋がっていくこともあったが、指導者としての満足感はむしろ国際基督教大学の留学生を白紙状態から指導することから得られたように思えて仕方がない。皮肉なことであるが、これからの日本の音楽教育がどのように変わっていくか、面白い立場から見守ることになった。

 私にはもう1つの音楽家の顔がある。東京での最初の5年間を過ごした下宿先では、「お兄さん」と私が呼んでいた家主の息子さんが、地歌箏曲の米川文勝之師(今の2世米川文子師)に師事していた。来日したばかりの私には箏曲を学ぶ意思は毛頭なかったが、1度見学に行ったら圧倒され、「私も」ということになった。長い話になるので省くが、今ではこの世の中で最も心地よい音楽と私が思っているのは地歌箏曲であり、特にいわゆる「京風手事物」が大好きである。研究はどこまで出来るかわからないが、この「大好きである」という感覚を、出来るだけ多くの人々と共有できるように努力していきたいと思っている。

 日本伝統音楽研究センターにおける自分の役割について、まずは2つ大きな任務があるように感じている。1つは日本音楽関係の資料の収集・整理・保存に努めること。限られた予算、今後の厳しい経済状況の中で、例えば上野学園日本音楽資料室のような網羅的な収集はまず無理であろうが、明治以降の研究図書をそろえ、和装本に関しては代表的なものを少数、そして各機関の重要な写本・版本類を写真や画像データといった形で集めて、資料室の充実を図りたい。

 もう1つは、私が英語を母語とする外国人であることから言わずもがなという印象を持たれるかもしれないが、研究センターが文字通り「センター」(拠点)として、日本国内に止まらず世界的にも機能するように、海外の日本音楽研究者との交流に努め、日本における研究状況などを正しく発信することに力を注ぎたいと思っている。

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公開日:2001.10.01
最終更新日:2001.10.01
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(C) Research Centre for Japanese Traditional Music, Kyoto City University of Arts