京都市立芸術大学
第1号 2001年3月
廣瀬 量平
そもそも私の音楽への意識的努力は西洋音楽に対してであった。1945年以後の日本の新しい混迷のなかで西洋音楽は一条の光明であった。それは只の音でありながらその中に人間の指標も、社会の目標をも含む貴重なものとして、現実が暗ければ暗いほど輝かしく私の中に響いた。
第2次大戦後の激動の大きな部分を北海道大学の学生として体験した私は、自分の将来について多く迷った。理論物理学への希望、数学をすすめる師、歴史学、社会科学、宗教学などへの止みがたい欲求と接近。しかし、その結果決めたことは、大学卒業式の翌日直ちに北海道をはなれ、東京に出て正式に作曲を学ぶこと、であった。札幌で身につけたと思われるものは、いわゆるクラーク博士の Boys be ambitious! に示された開拓精神、未知の領域を拓くフロンティアスピリット、新戸部稲造などの先輩等の影響、そして音楽の意味の発見だったようである。
かくて、東京芸術大学作曲科に入学した私だが、さしあたっては自分に欠けていた音楽の実践的技術を身につけることに専念した。音楽の知的理解を深めようなどということにとどまることは考えなかった。たとえば、対位法について知ることと、対位法的技術を身につけることとは全くちがうことである。私はまずアルチザン(職人)を目ざした。それ以外はたとえば田邊尚雄先生の日本音楽史は何故か心に残った。
西洋音楽を学べば学ぶほど、西洋、そしてその歴史と伝統に関心が深まらざるを得なかった。一応の基礎技術の習得を終えて、いよいよ自分の創作にとりかかろうとした頃、1960年の、社会的激動を体験したことも大きかった。
この嵐の中で私は、ベートーヴェンやベルリオーズやワーグナーの夢と挫折を内側から体感、納得した。しかしその反面、日本の社会と構造とは西洋モデルとはかなりちがうことも思い知らされた。彼地の法則は我々にあてはまらないことも多い。そのことは風土や歴史や、それにはぐくまれた感性も異なり、その結果としての文化の形も、人々の願望もかなりちがう、という今からみれば当り前のことに気づいた。そしてその頃、このようなことを黙々と調査・実証しつづけてきた柳田国男の仕事の意味がわかりかけてきた。そしてまさにその頃、1962年にこの碩学は世を去られたのである。
芸術大学卒業後、演劇のための作曲をしつつ、自分の方向を模索していた私は、堀田善衛原作の「海鳴の底から」の仕事ではじめて三味線と尺八を使った。いわゆる島原のキリシタン一揆に材をとったこの劇は、カトリックの聖歌や日本人流に正調から変化された聖歌(後のオラショ)などの音楽が必要だったし、民衆の万感の思いと内心の叫びは西洋楽器になじまず、日本の楽器でしか表現出来なかった。
かくて私は1963年にはじめて邦楽器で作曲したわけであるが、これが私の転機となり、64年には尺八のために作曲したが、当時は現代邦楽という言葉もなかった。この後私は、日本伝統音楽の楽器のために作曲することが多くなった。もちろん西洋楽器のためにも多く作曲したが、両者が共存する曲の場合はそれらを調和的に扱ったことは全くなく、この両者間の対立と緊張を如何にして定着させるかを考えた。
私は、江戸邦楽の緊張感の稀薄さに何かしら物足らなさと沈滞を感じて、伝統楽器のための作品であっても、今日的な緊張を積極的に含み、はっきりとした問題提起のある音楽のみを作り出そうと心掛けた。
その後、ふとしたことからインドに行くことになる。それは1971年の秋、東洋音楽学会と日印協会との主催による、印度音楽舞踊学術視察団が、ガンジー首相の招きで訪印することになり、一人欠員があると小島美子さんが連絡して下さり、突然のこととて少しためらった後参加を決めた。
その一行は、田邊秀雄団長をはじめ、吉川英士(英史)、横道萬里雄、郡司正勝、本田安次という巨星に加えて、内田るり子、小島美子、上参郷祐康、増本喜久子(伎共子)、それに小泉文夫門下の逸材たち、桜井哲男、草野妙子、小柴はるみ、石原笙子(桜井笙子)、大貫紀子などなどの人々、日本伝統音楽の研究を拓いた人々、拓きつつある人々、それに(初代)宮下秀冽、山川園松、菊地悌子、後藤すみ子などの邦楽家も加わり、もしこの飛行機が墜落でもしたらと、思えば恐ろしい程であった。あらゆる笛の達人、上杉紅童さんとも、この旅で初めて出会った。小泉文夫先生は空港に見送りに来られた。
その後私は作曲活動をつづけ、1969年には私の尺八の作品集が芸術祭の賞をいただいた。1974年には、選ばれて日本現代音楽協会の書記長となり、78年には副委員長、84年には委員長になったが、西洋現代音楽に重心を置くこの団体の長としての仕事は必ずしも自分の価値観と重ならない部分が多いという矛盾も感じていた。
一方、1976年にNHKの委嘱で「尺八とオーケストラのための協奏曲」を作曲して、山本邦山が演奏し、それが第25回尾高賞を受賞した。日本における西洋音楽の牙城たるNHK交響楽団が、日本の楽器を主役とする曲に賞をだしたのははじめてのことで、N響が邦楽器をやっと認知したと各方面からいわれたが、この曲はその後、現在に至るまで反復演奏され、高校教科書の教材になっている。しかもこの曲の初演10年後の1986年に東京芸大に尺八科が設置され、山本邦山はその講師となった。それまで芸大に邦楽科はあったが、尺八科がなかったのである。そして2001年の今、山本邦山はその教授である。私のしたことは極めて微々たるものであるが、ロングレンジで見れば現実は少しづつではあるが動くようだ。
ところで、同じ1976年に私が作曲した作品「天籟地響」が芸術祭優秀賞をいただいたとき、小泉文夫さんから、NHKラジオ放送で以下の言葉をいただいた。
「こういう新しい境地、あるいは新しいジャンルは、伝統を何となく受け継いだり、都合のよい素材を取り出して利用するのではなく、日本やアジアの歴史をもう一回掘り起こすような形でなされなければいけない。そういう形での伝統の活かし方が必要だと思います。従来のやり方だと素材を西洋音楽の枠にあてはめたり、日本の楽器を使っただけで本質的には西洋音楽の発想だったりして‥‥。それだとどうしても大切なものが死んでしまうのです。我々の本当の伝統が活きてこない。その辺のところを踏まえて廣瀬さんの今後に大きな期待をもつのですが、作品と同様に若い人達を導いてほしいとも思うのです」
今思い返せば1976年という年は私にとって、何か偶然と思えないことが重なっている。というのは、この年、私は日本放送協会からの求めに応じて、『放送文化』2月号に一文を書いた。題して「我らの内なる縄文の音−日本人の音感の原点を求めて−」である。
これ以前からNHKと縄文の石笛を求めて各地を取材旅行し、その都度放送していたことにもとづいて書いたものであるが、この反響は大きかった。作曲家の柴田南雄さんは、その著書でくり返しくり返しこの文を紹介、評価してくださったが、今や音楽考古学なる領域も形成されていて、感無量である。
そしてその翌年の77年に、哲学者梅原猛先生が学長をして居られた京都市立芸術大学へ来ることになったのは、前記小泉先生の言葉にも影響されてのことかもしれない。この大学では、かつて私自身がしてきたように西洋音楽を素材にした作曲の職人的訓練とあらゆる音楽の分析を行った。
就任14年目にあたる1991年、建都1200年を前にして、京都の世界文化自由歴史都市推進検討委員会において、その委員だった私は京都市のために必要な施策の提言を求められ、「伝統音楽の研究施設を」と提言した。当時私は音楽学部長であったが、あらゆることを考えた末、このセンターは音楽学部の一部ではなく、それから独立した施設でなければならないとした。
また、この年の3月には、京都新聞主催、21世紀会議の第2次提言において、その委員であった私は、「アジア・日本音楽芸能研究センターの設立」を提言した。
これはやがて市民、マスコミ、そして行政の側からも応援の声があり世論もしだいに高まった。1996年、私が定年退職した翌日の4月1日、私は芸術・教育担当の嘱託との新しい辞令を受けたが、同年6月、市芸術文化振興計画の中で伝統音楽研究部門の設置が市の最重点施策として位置づけられ、調査費が計上された。同年10月、この伝統音楽部門の調査が私に依頼されて、97年4月には、実施設計費及び地質調査費、98年4月には施設建設費が認められ、17ヶ月にわたる工事が着工した。1999年9月には、私は日本伝統音楽研究センター開設準備室長に就任、開設に向けて具体的に動き出した。
そして、2000年2月に新研究棟(美術博士後期課程と日本伝統音楽研究センター)が竣工、4月開所となり、4月と5月に分けて新任研究者が着任し、私にも所長になるようにとの命が下った。
かえりみれば、私が最初に提言した1991年以来9年目に設立されたことになる。
この間にも予期しない変化もあった。例えば文部省(2001年からは文部科学省)が、一般教育の中に、伝統音楽を加えたことなどだ。我々は時流にのったのではなく、期せずしてそうなったのである。これは思いがけない誤算であった。
あのバブルの時代が終わった厳しい経済環境の今、この研究センターは夢でなく現実としてここにある。期待して下さった市民はじめ各方面の方々に感謝し、それに答えなければと思っている。全国各方面から「さすが京都」とか「まさに京都に在るべきもの」など沢山のお祝いの言葉が寄せられた。
私もこの国の音楽人として、正直いって西洋音楽が偏重されていることに何となく肩身が狭かった。自分達の仕事が自国の伝統を消滅もしくは希薄にしつつあるのではないか、といううしろめたさである。たしかに明治開国以来の「追いつき追い越せ」も必要。「本場で通用し、賞揚されるに値する仕事をすること」もまた価値あることである。しかしそもそも音楽において"本場"という言葉がつくのは植民地主義的ではないか。
私はニューヨークやパリやウィーンやアムステルダムやヘルシンキやプラハなどの一流ホールで自作のオーケストラ作品が演奏され、成功といわれ、拍手を浴びても何故かそれが西洋音楽の枠の中での成功としか思えないということは、もしかしたら私の欲張りかもしれない。
一方、私は、ヨーロッパの古楽(early music)にもたずさわり、そのための作品も書いたが、それらは、今や欧米の大学の卒業曲目やコンクールの課題曲ともなり、コンサートのスタンダードナンバーとなっている。私の曲の演奏法を学びに日本にやって来る人々も多く、演奏旅行の曲目に加えて来日する演奏団体もある。この経験を日本の場合と倒置してみると興味深い。私がやっていることは、ヨーロッパの伝統音楽をも活性化させているらしいのだ。このことが、どういうことなのかを考えることも日本伝統音楽の未来へつなぐ方法のヒントになるかもしれないと思う。
今度このセンターが設立されて動き出したことで、何かほっとしている。脱亜入欧のやりすぎで止まらなくなった結果としての主体性の喪失に対して、ささやかな一矢を報いられたであろうか。だとすれば私自身は自由になり安心して自分の作曲にも励めるかもしれない。またセンターは幸いにも幾多の優秀な研究者を迎えることが出来て、各方面の期待にも沿うことが出来ると確信している。
2001年3月10日の開所記念シンポジウムで、音楽は生体でいきいきと、とらえなくては、という発言もあった。音楽は過去の人々の素晴しい生き方をその中に含みつつ活きていた。それを生命あるものとして、現在と未来に伝えることはむずかしいが必要なことである。伝統の継承の仕方、研究の仕方、発展のさせかたも多様であろう。そのため人々がそれぞれの得意を活かし、補い合い、多くの刺激と助力をも仰いで、広い幅を持つ大河のように、悠々と、堂々と未来に向ってこのセンターが流れてゆくことを願っている。
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